【 ガラテヤ1,2章 】パウロの正当性
ユダヤ主義者たちは、パウロが最初の12弟子ではないと、使徒としての正当性について疑いをかけます。また、エルサレムで伝えられている救いの教えとの矛盾を指摘して、パウロの信用を落とそうとしました。
これに対してパウロは、神の召しによって使徒とされ、イエスの啓示によって福音を伝えていること、そして、その召しと啓示による福音、異邦人伝道の恵みは、エルサレムの柱と目されるおもだった人たちからも認められていることを明らかにしました。
【 経緯 】
( 回 心 )
いったんアラビアに退き、それからダマスコに戻り福音を宣べ伝える(使徒9:1-25、ガラ1:13-17、Ⅱコリ11: -12: 、フィリピ3:4-9)。
( 3年後 )
エルサレムのペトロとヤコブのもとに15日滞在(使徒9:26-29、ガラ1:18-20)。
( その後 )
カイサリヤを経由してタルソスへ逃れる(使徒9:30、ガラ1:21-24)。
(13年後)
バルナバに呼ばれ、アンティオキアで御言葉を教える(使徒11:25-26)。
(14年後)
啓示を受け、エルサレムに上る(使徒11:27-30、ガラ2:1-10)。
( その後 )
アンティオキアに来たペテロを食事のことで責める(ガラ2:11-14)。
神の召しと啓示による福音(1:11-24)
まずはじめにパウロは、自分の使徒職の正当性について、これまでの経緯を表しながら、人からではなく、神の召しによって使徒とされ、そして、人からではなく、イエス・キリストの啓示によって福音を教えられたことを明らかにします。
パウロは、信心深いユダヤ人であった自分が如何にしてイエスを知り、人から誰の教えも受けることもなく、今、福音を宣べ伝えている経緯を明らかにしました。
パウロが宣べ伝えている福音は、預言者たちによって明らかにされ、イエス・キリストを通して成就された神のご計画なのです。
おもだった人たちに認められる(2:1-10)
パウロは、異邦人伝道の恵みがエルサレムのおもだった人たちからも認められていることを明らかにします。
啓示を受けたパウロは、エルサレムのおもだった人たちのもとに上りました。そこでパウロは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について個人的に示します。
ユダヤ主義者たちの主張に屈せず、福音の真理について明らかにしたことで、おもだった人たちからも、にせ兄弟たちからも、ギリシア人であるテトスでさえ、割礼を強いられることがありませんでした。
それどころか、柱と目されるおもだった人たちは、パウロとバルナバが異邦人への使徒として神から召されたことを認めたのです。
ペトロをいさめる(2:11-21)
ペトロ、パウロ、ユダヤ主義者、一部の異邦人キリスト者が、シリアのアンティオキアに集まったとき、ペトロは、ヤコブのもとから来たユダヤ主義者たちの感情を害さないように、異邦人キリスト者たちから離れて食事をしたようです。バルナバも、この行いに引きずり込まれてしまいました。
これは、他の人たちと仲良くやって行くための妥協だったのかもしれません。しかし、その行いから現される本心は、キリストの十字架は救いに十分ではないこと、ユダヤ主義者の主張を支持し、神を冒涜することを表す行為でした。
そこでパウロは面と向かってペトロの行いを責めます。これによりペトロは、心を入れかえ、自分の行いを正しました。このような出来事を通してペトロは、後の手紙の中でもパウロの教えの正しさを明らかにしています。
律法を守ることは自分を誇ること(2:15-21)
パウロは、「私(ユダヤ人)は、あなた(異邦人)のような罪人ではない」と、ガラテヤの人々を挑発し、反感を買いそうなもの言いをしています。
それは、「思い上がって、互いに挑み合ったり、妬み合ったりするのをやめましょう(ガラ5:26)」ということを言っているのです。
律法の行いによって神の好意を得ようとする思いは、自分の行いを誇る過った思いに目を向けることになります。
私たちは、キリストの真実によって義とされ、キリストにあって義とされることを求めることによって、キリストが私たちの内に生きておられる恵みによって義とされるのです(ガラ2:16,17,20)。