【 説教09 】「天の国は近づいた」
これは2023.3.5に、『ベルゼブル論争』について、子供と大人が参加する礼拝で、私がお話したものです。
【 聖書箇所 】
【 説教 】 約18分00秒
今日の聖書箇所では、「口の利けなかった人が悪霊を追い出されたことで話し始めます」。これは、どういったメッセージなのでしょうか。そのことについて、御心を深めていきたいと思います。
この『ベルゼブル論争』という小見出しのついたお話は、日常でもよく目にする出来事だと思います。
ダビデの祈り、「悪しき者がこぞって自らの網に落ちますように(詩141:10)」ということです。
例えば、カフェでみんなが「おいしい」と食べてるときに、「みんなと同じ意見だと負けた気がする」みたいにひねくれた人がいるんです。
「おいしいよね」と振られて、「まぁ、普通じゃないかな。あそこの店と同じくらいじゃない」と、美食家ぶって答えるんです。
すると、そのカフェの推しの人がいて、「あなた、この前私が紹介したら、『こんなおいしいものは食べたことない』って食べてたじゃない。あれは嘘だったの」と責められて、「そ…それは誤解だ」とかですね。
なにも誤解はありません。
また、好きな人が読んでいる本は、「やっぱり知的な人は、こんな本も読みこなすんだな」とか言って、なにかにつけてほめて興味をひこうとするのです。
けれども、その人にとってどうでもいい人が本を紹介したりなんかすると、「そんな辛気臭いものばっかり読んでるから、ほこりかぶったような性格になるんだよ」などと、茶化したりするんです。
すると、自分の好きな人から、「あ、それ私がこの前紹介した本…」とか言われてたりする。
みなさん、何か思い出しましたか。
私は、昔のことをいろいろ思い出しましたよ。
私は、この『ベルゼブル論争』と、まったく同じやり取りをしたことがあるのです。
小学5年生の頃、転校生が来たのです。
その子のテストの点数がよかったのです。
私はそれをねたんで「あれはずるをしているんだよ」と言いました。すると、その子がやってきて「あなたも普段の小テストはあまり優れないようだけど、今回のテストはずるしてたってこと」と言われました。
私は、何もいうことができませんでした。
問題は、なぜ、私がそんな言葉を遣ったのか。
それは、私には近所によく遊んでいたお友だちがいました。そのお友だちから「いつも点数がよくていいな」とほめられていたのです。だから、私も「あなたもちゃんとやれば本当はできるでしょ」といいます。
すると、なぜか、そのお友だちは、イラッとして「ずるをしてる人に言われたくない」と言われるのです。
そういうやり取りが度々あったので、良い点数を取る人を見ると、私の中からは「ずるをしている」という言葉が出てくるのです。
それでは、なぜ、近所の私のお友だちが、そんな言葉を遣うのか。
1990年代に、私の田舎の方にもほめて育てる教育が広まってきました。だから、テストがよかったらご褒美をもらえるという家庭が多かったのです。
その子は、欲しいものがあるときだけちゃんと勉強して、良い点数を取るのです。
だから、ちゃんとできる子なのです。
けれども親は心配になるのです。
なんでこんなに良い点と悪い点の差があるのだと。それで、「あなたずるしてないわよね」と聞いてしまうのです。
それは、「ちゃんと勉強した実力だ」ということを信じさせてほしいと尋ねるのです。
けれども、その子は、「自分は信用されていない、疑われている」と受け取ったのです。だから良い点を取ったら不正を働いているという発想になるのです。
「あなたもちゃんと勉強すればできるでしょ」といったときに、イラッとしたのは、そのことを思い出したからなんです。
これは、「周りの大人は言葉に気をつけましょう」というお話ではありません。
そんな話は、ただの世の道徳のお話です。
聖書のお話は、「私たちは何を頭として、誰を主人として生きていますか」ということです。
私たちは、必ず誰かを主人として生きています。
それがイエスさまでなければ、サタンです。
教会の外には、「私は自分で考え、自分で判断して行動している」という人もいっぱいいます。
聖書に従うならば、それは全部サタンですね。
そのことは、あなたが「神に従って生きるとは、こういうことか」ということを知ったとき、その人たちが何に捕らわれているのかが、見えるようになってきます。
そのきっかけの一つが、 “その人の言葉の出所を探る” ことなのです。
イエスさまは、「医者を必要とするのは病人である」と言われます(ルカ5:31-32)。
同じように、神を必要とするのは罪人なのです。
罪という言葉について、少し後ろめたい、後ろ暗い感じがある人はいますか。
ここで、罪という言葉について、少し確認をします。
“罪” とは「勘違い」とか、「的外れ」という意味です。
罪人とは、誤った主人の教えを過って受け取っている人のことです。
人は自分の過ちに自分で気づくことはできません。病気やケガなら、「調子が悪いな」と、患者が医者のもと、病院に行きます。
けれども、誤った主人から教えを受けている人のもとには、そのことに気づかせるために、神の方から来られます。
先ほどの話を、もう少し状況を詳しく話すと、私が転校生に直接言った言葉ではなかったのです。また、別に傷つけるつもりの言葉ではなかったのです。
仲の良い友達との会話で、「あれは、ずるしてるんだよ」、「そんなことないよ、都会の人は塾にいって頭いいんだよ」、「えぇ、そうなんだ。都会の人は違うな」といった、一回下げて上げるという、よくわからないコミュニケーションを知ってますか。
悪いコミュニケーションなのです。
それを、主はそれを聞き逃さなかった。
主は、その転校してきたお友だちを私のもとに遣わして、「あなた、そういうコミュニケーションはやめなさい」ということを「あなたも不正を働いているんですか」と言って伝えに来たのです。
主は、このように人の口を通して語られます。
なぜなら、シナイ山で十戒を告げられたイスラエルの民が「神が直接語ることのないように、モーセ、あなたが語ってください」と願ったからです(申命18:15-19)。
主は完全に清いお方だから、御顔を向けると焼き殺してしまうのです。だから、神の言葉を伝える人を送られました。
旧い時代では、霊を与えられた神の人が神の言葉を届けに来ました。けれども新しい時代では、神を信じ、霊を与えられているあなたが神の言葉を聞き分けます。
なぜ、群衆は「ベルゼブルの力で追い出している」と言うのか。
この言葉の出処はどこか。
それは、2つしかない。
その人たちが自分たちの指導者たちから直接言われたか、もしくはグループの中で言われている人を見たか、どちらかなのです。
そのことをイエスさまは言われます、「だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」と。
「裁く者となる」と、これからのことのように言われています。けれども、「現に、今までそうだったでしょ」と言っているのです。
なぜなら、少なくとも「光あれ」と、創世記の冒頭の時点で、神の教え、御国の働きはこの地上に及んでいるからです。
イエスさまは、御国の働きをまるで重力であるかのように話されています。
「高い所から落ちたら死ぬって知りませんでした」。
だったら助かりますか。
「重いものが落ちてくる下にいたら、潰されて死ぬってわかってませんでした」。
だったら生き残りますか。
そんなことありませんよね。
そのことを知ろうが知るまいが、落ちたら死ぬし、潰されたら助からないのです。御国の働きも、このようにすでに働いているのですよ。
それを信じる者にだけ、御心を捉えることを許されます。
私のお友だちも「あなたも本当はできるでしょ」と、私に言われたときに、親からの言葉を思い出して、イラッとしたように。
群衆も、イエスさまが悪霊を追い出しているのを見て、自分は指導者たちから、「ベルゼブルの力」と言われたことを思い出すのです。
だから、「(群衆)ベルゼブルの力で追い出している」、「(お友だち)あなたはずるをして良い点を取っている」というのです。
そのうち、なぜ自分はそんなことを言うのかさえ忘れてしまいます。
これが言葉の出処、霊の親です。
その霊の親がイエスさまでないなら、ダビデの祈り、「悪しき者がごぞって自らの網に落ちますように」という、御言葉が実現します。
けれども、イエスさまは、「しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われます。
イエスさまは「神の指」と言われています。
これはシナイ山でモーセたちに十戒を授けたときのことを言われています。
十戒は2度渡されます。
初めに渡したときは、石の板に神の指で文字が記されます(出31:18)。けれども、『金の子牛事件』で、モーセが投げて壊したので、もう一度、渡されます。
2回目は、誰が文字を記しましたか?
2回目は、モーセが記したのです(出34:27-28)。けれども、神は同じ石の板を渡したと言っています(出34:1)。
それは、その業をはじめて見たとき、また、注意をされたとき、あなたは神の働きだと信じたよね。その人の方が正しいと思ったよね。でも、あなたの中の多くの者たちは、それを疑い、拒んだよね。
だから、もう二度とあなたの中の正しさを失うことのないように、あなた自身の心に、あなたの手で、あなたが言われた正しい主人の言葉を書き記しなさい。
1回目は、神があなたのために言葉を届けました。2回目は、あなたがあなたに与えられている人々のために、主と共に記しなさい。
苦難というのは、神の子としての成長の機会です。
私も私の友達も、テストで不正は働かなかったけれども、誤ったコミュニケーションに用いるようになっていました。
それを指摘されて、「なんだよ、冗談じゃないか」と、その言葉を退けると、「俺は悪くない」、「周りが悪い」、「何で俺ばっかり」という牢獄に閉じ込められます(Ⅱペト2:9)。
けれども、カギをかけたのは、その人なのです。
一方、人から非難されたり、疑われたりするときに、「それは悪いことをしたな」とか、「疑われるような態度をとっていたんだな」などと、自分を見つめ直す機会にすれば、神はあなたのところに来ている。
その言葉は、あなたを建て上げます。
私たちには、命の実も知恵の実も、まったく同じに見えるのです。
私たちは、天の父の“子供”なのです。
誰を親として、どのように教えを受け取るのか。その受け取り方、同じ言葉をどのように受け取るのかに気をつけることです。
そのことを意識すると、霊を見分ける目が養われます。
例えば「ばか」と人を非難すると、どうなりますか?
「バカっていう方がバカなんだよ」と、怒りは怒りで返ってきます。
けれども私たちは、相手の怒りに怒りで返すという義務から解放されています(ロマ8:12)。
そのための一歩に、相手に興味をもつということです。悪いことをしたら謝らないといけません。けれども理由もなく非難されたら、質問してください。
「私のどういうところがバカだと思ったの」とか尋ねてください。
それがわかれば、もう「バカ」とは言われないのですから。
何か責められたら、「どうすればよかったかな、参考に聞かせてほしい」とか、意見を取り入れるために聞いてください。
だいたいの場合では「自分で考えろ」と、答えてくれません。
けれども重要なことは、神の言葉を聞くために “ちょっと待てよ” という時間をつくること、質問する習慣をつけるということです。
それが神の望んでおられる古い時代の安息日の過ごし方なのです。
これはモーセの荒れ野の旅の中で、「マナが6日降るけれども、7日目はどうすればよいか」という教えです。
「神の言葉を自分のために蓄えておきなさい」と言われます。
イエスさまも30年の間、大工の息子として生活して来ました。けれども、ある時から、「天の国は近づいた」と、神の言葉を話し始めるのです。なぜですか。
今日の聖書箇所では、口の利けなかった人がものを言い始めます。
これは、どういうメッセージですか?
私たちは、何を話すことができないのですか?
イエスさまは、罪を犯すことなく、私たちのために神の言葉を蓄え続けました。そして悪を退け、善を選ぶことができるようになるまで成長したのです。
そして、何を話すようになったのですか?
天の父の言葉を話すようになったのです。
私たちも、聖書の言葉を蓄えていくことで、天の父の言葉が泉のようにあふれるようになります。
そのために、あらゆることに質問をする習慣、“ちょっと待てよ” という時間をつくることです。
人には答えられないことでも、神は応えられます。
「私の知っていることではなく、私の知らないことを教えてほしい」、「私の心があなたの言葉を捉えることができますように」と願い求めることです。
神が愛するわが子を訓練するように(申命8:1-10)、私たちを神の子として育ててくださいますように、お祈りをします。
【 お祈り 】
天の愛するお父さん、あなたは私たちを愛し、訓練されます。
私は自分のために命を守ることはできませんが、あなたのため、兄弟たちのためであれば、あなたの命にとどまることができます。
時が満ちるまで、私の唇の戸を守り、あなたの言葉を教えてください。あなたの言葉を集め、日々思い巡らせ、心に記します。
あなたの祈りによってあなたの前に立たせてくださいますように。
アーメン。
( 参考:申命8:2-7、マタイ25:31-40,申命10:19,24:18、詩141:3,箴言1:23、出エジプト16:16-21,マタイ13:10-17、ヨハネ17:6-19,ルカ5:18-20 )
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