【 ガラテヤ5,6章 】キリスト者の自由
仕える自由(5:2-26)
自由とは、何でも許されていること、制限のないことではありません。そして、罪を犯す自由とは、自分の罪深い性質の奴隷になることです。
キリスト者に与えられた自由とは、神に仕える自由、自分本位の生き方から解放され、天の父の思いによって生きる自由が与えられました。
パン種とは、聖書の中では悪のたとえであり、まるで発酵によってパン生地を大きく膨らませるように、たった一つの誤った教えが多くの罪を生み出します。
罪のはじまりは、たった一人の小さな過ちから入り込んできました。
にせ教師というパン種がガラテヤの人々の中に入り、ゆがんだ福音を広めようとしています。
その者たちがすすめる割礼という小さな律法を受け入れることは、律法すべてを負わされる義務を負います(ガラ5:3-4)。
このような養育者や管理人のもと、罪の奴隷に戻るのであれば、神のもとの自由、救いの恵み、父親の思いによって生きる生き方からは無関係の者となります。
にせ教師たちは、キリスト者の成長は律法を守ることによってなされると教えていました。しかし、律法を守ることによっては誰も、神の前に義とされることはありません(ガラ3:11)。
なぜなら、キリストの支配の結果生じる御霊の実によって、私たちは内側からキリストのものとして新しく創造されることが大事なことだからです(ガラ6:15)。
この御霊の実の成長を望むのであれば、キリストとつながり、イエスを模範として生きていかなければなりません。
キリストのご性質(5:16-6:10)
この御霊の実は、キリストの性質に見出される特性をキリスト者の内に生じさせます。
この御霊の実に見られる性質が、神への感謝の応答として行いによって現されるようになること、それが、“ 愛によって働く信仰 ”です。
このことにより、律法は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされます。
神は、人と人の平和ではなく、神と人との平和のために来られました。私たちは霊にあって生き、霊によって歩むからです(ガラ5:25)。
私たちはイエスにあって一つなのです。
「人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになる(ガラ6:7)」という言葉は、当時の一般に広く流布していた格言だと言われています。
世の中には、努力が報われなかったり、悪人が裁きの座についていることがあります。
しかしパウロは、御霊の実を表し、見せかけだけの富や名誉に惑わされずに、たゆまず善を行うことを勧めます。
なぜなら、「時がきて刈り取ることになる(6:9)」からです。
肉に蒔く者は、思い上がり・挑み合い・妬み合ったりする肉の業の結果として滅びを刈り取ることとなります。
だから、「思い違いをしてはならない」、「神は侮られる方ではない」と忠告しているのです。
結び(6:11-18)
この結びは、この手紙が本物であることを確認するために、パウロ自らが筆をとり、書き記しました。
キリスト者は、イエスの十字架を誇り、イエスが神の前に完全な道を歩まれたことを信じることによって、キリスト者は神の前に新しく創造され、義とされ、アブラハムの祝福を共有する子とされます。
キリスト者は、このイエスこそが私たちの父であり、その父の歩みにならうことによって、キリストのご性質が内から行いとなって現れ、律法が完成されます。
これによって善をもって悪を滅ぼすことこそが、神の御心であり、ご計画なのです。