【主日礼拝ノート】「聖書が告げる救い主」
これは2023.12.10の主日礼拝で、H.Y牧師がお話されたものを書き留めて、話の流れに沿ってまとめたものです。
【 聖書箇所 】
(旧約)列王記上 22章6-17節
(新約)ヨハネによる福音書 5章36-47節
【 説教まとめ 】
クリスマスとは、キリスト礼拝という意味です。イエスが、天から来られた神のことであることを信じる信仰です。
どうすれば、私たちは、このことを信じることができるでしょうか。
朝の子どもと大人が参加する礼拝でお話をされていた方が、おもしろいことを話しておられました。それは、『私たち自身を証明するためには、どうすればよいのか』というお話です。
子どもの頃は、親が子どものことを証明しますが、大人になると、証明のために親を連れて来ても通用しません。運転免許証や保険証、マイナンバーカードなど、公的な書類の提出を義務付けられてしまいますね。
イエスさまを証しするには、どのようにすればよいでしょうか。
それは『聖書』によって証しされます。しかし、その証しのために、私たちは、イエスをキリストとして受け入れるかどうかを問われています。
教会の外ではクリスマスに向けて電飾を備えました。それを見て、近所の子どもたちが、「クリスマスだ」と喜ぶ声が聞こえます。しかし、キリストのいないクリスマスは空しいものです。このような人たちも、もっとキリストを知ってもらいたいと願っています。
さて、今日の新約聖書の聖書箇所は、『ヨハネによる福音書 5章36-47節』ですが、そのために5章を全体的に読み返してみましょう。
イエスさまは、ベトザタの池で38年も病気で苦しんでいる人を癒やされます。しかし、そのことでユダヤ人たちはイエスを殺そうと考えるようになるのです。
それはイエスが安息日にしてはならないことをしたからであり、神を「ご自分の父である」と言われたからです。
しかし、主が安息日を定められたのは、奴隷たちを休ませるためであり、またエジプトの苦役から救い出してくださった神への喜びと感謝を思い起こすためでした。
ユダヤ人たちは、その主旨から離れて文字面の掟に縛られて、自分たちが作り出した規定によって十戒や律法には記載されていない、「床を担ぐこと」や「安息日に癒やすこと」などは、労働に当たるとしていました。
ユダヤ人たちは、律法のうわべだけを見てイエスを裁いたのです。
そして、十戒を根拠にイエスを殺そうとしたのです。
しかし、それは同じ十戒に違反する行為でした。
イエスとは、誰なのでしょうか。
イエスさまは、ご自身を証しするために、4つの証しを立てられました。
【 4つの証し 】
➀ ヨハネの証し(ヨハネ5:33)
ヨハネは、もうすぐ救い主が来られることを告げ、水の洗礼を授けたときに霊がとどまったイエスを「神の小羊」と、弟子たちに証しました(ヨハネ1:19-42)。
② わたしが行っている業(ヨハネ5:36)
水をぶどう酒に変える(ヨハネ2:1-12)、役人の息子を癒やす(ヨハネ4:43-54)、ベトザタの池で病人を癒やす(ヨハネ5:1-15)などの癒やしや奇蹟の業。
③ 父が私に成し遂げるようにお与えになった業(ヨハネ5:36)
十字架の死と復活、そして昇天
④ 聖書による証し(ヨハネ5:39)
イエスの到来を証しするもの。
ユダヤ人たちは、旧約聖書のうちモーセの五書(創世記~申命記)を特に重要視していました。そして永遠の命を研究していましたが、聖書はイエスを証しするものであることを、イエスさまは明らかにされました。
モーセはイエスを証ししました。ですから、イエスを否定することは、モーセを否定することであり、「ユダヤ人たちはモーセの裁きを受けることとなる」と言われたのです。
『出エジプト記』に記されている過越の出来事では(出エジ12:1-36)、小羊の犠牲の血によってイスラエルの民は救いを受けました。この小羊こそがイエスであり、モーセは神の導きに従いイスラエルをカナンの地まで導きました。
この血によって救いを受け、新しくされたモーセが、イエスご自身でもあり、イスラエルの民を導いたのです。
カナンの地に向かう途中で、イスラエルの民はシナイ山に立ち寄り、十戒を授けられます。この十戒は、エジプトからの脱出に感謝を示すための応答です。
しかし、ファリサイ派や律法学者たちは、律法主義に陥り、律法は救いの条件であると勘違いをしたのです。
救いは、小羊の犠牲の血によるものであり、行いによって救いを受けたのではありません。イエスだけが罪の奴隷から私たちを解放してくださる救い主なのです。
聖書全体が証しするイエスをキリストと迎え、命を救われた喜びの礼拝をしていきましょう。
お祈りをします。