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【CS礼拝】2024.2.4「神は愛」

  これは2024.2.4、おもに子どもとその保護者が参加する礼拝で、教会員奉仕者Y.Mさん(女性)がお話されたものを書き留めて、話の流れに沿ってまとめたものです。
  本文では、『聖書協会 新共同訳』を引用しています。

【 聖書箇所 】

  愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。  愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。  神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。

ヨハネの手紙 一 4章7-9節

【 説教要約 】

  神さまはすべて愛から始められました。

  神さまが造られた最初の世界では、人間も動物も平和の中にいました。しかし、アダムとエバが最初の罪を犯します。そして楽園から追い出された人間はいろいろな苦しみやみじめさに出会うことになりました。

  神さまは正しい方ですから、罪をそのままにしておかれません。罪を犯したら償わなければなりません。わたしたち不完全な人間は完全に罪を償うことができません。

  神さまは人間が罪のために滅んでしまうことをたいへん悲しんで、ご自分が罪を全部引き受けられました。神さまが人間となってわたしたちの身代わりになり、ご自分の命を献げたくださったのです。

  ここに、神の愛がわたしたちに示されました。

【 説教まとめ 】

  聖書をひと言で表すなら『神は愛』ということです。

  天地創造は愛から始まりました。神は、人が生きていくために必要なものを用意して、最後に人を造られました。

  それはまるで、親が赤ちゃんに接するかのようです。赤ちゃんは、自分で寝返りをうつこともできません。親は、乳を与え、おむつを取り替えて、お風呂に入れたりします。

  神は言われた。
  「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。  地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべての命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」

創世記 1章29-30節

  神が造られた世界は、初めは平和でした。

  すべての命あるものは青草を食べ、互いに傷つけることもなく、愛し合う世界から始まったのです。しかし、罪を犯したアダムたちがエデンから追放されることで、私たちの生き方は変わってしまいます。

  人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛1頭の代償として牛5頭、羊1匹の代償として羊4匹で償わなければならない。

出エジプト記 21章37節

  これは旧約聖書に見られる賠償に関する規定の一つです。私たちは、一つの命に対して複数の命を代償としなければなりません。私たちには、そのすべてを償うことはできません。

  しかし、イエスさまがすべてを献げてくださいました。

  親子関係に見られるように、子どものために親は何でもしてあげたいと思っています。苦しみや哀しむ子どもを姿を見たならば、それを自分が
代わってあげられたらと思うのです。

  愛です。

  私は訪問介護の仕事をしています。その同僚が入院して、しばらくの間、仕事を休んでいました。しかし、この同僚には、行動障害の子どもがおり、ゆっくり入院もしていられなかったそうです。

  行動障害とは、いつも暴れるか、騒ぐかしてしまうそうです。たとえば、壁などを殴ったり、蹴ったりするそうですが、その加減をしないために、壁だけでなく、自分の体も大きく傷つけてしまうそうです。

  その同僚は、そういったことをやめさせるために、いつも子どもを押さえつけて、怒ってばかりいたそうです。

  私たちは、すべてを守ることはできません。そのようなときは、誰かに助けを求めてもよいのではないでしょうか。

  その背後には、神がいます。

  神は、人を諦めません。

  今の時代、災害や、戦争や、貧富の差などいろんな社会的な問題だけではなく、個人的な問題が起こっています。しかし、「そのような哀しみが過ぎ去って喜びのときがくる」と神は言われます。

  そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、  彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

ヨハネの黙示録 21章3-4節

  狼は小羊と共に宿り / 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち / 小さい子どもがそれらを導く。  牛も熊も共に草をはみ / その子らは共に伏し / 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

イザヤ書 11章6-7節

  人と人、人と動物、動物と動物の平和のときを、神は約束しておられます。私たちは、どのようにそのときを待つべきでしょうか。

  それは、神の愛にとどまることです。

  「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

ヨハネによる福音書 6章9節

  これは『5000人の給食』でイエスさまが起こされた奇跡の業です。イエスさまは、少年の小さな献げ物を用いて5000人にパンを裂いて与えられました。

  小さな献げ物でしたが、その少年にとってはすべての献げ物だったのです。このように神の愛にとどまることが重要です。

  今、私たちの教会では、被災地やミャンマーの支援など献金をしています。その支援先から感謝の手紙が届きました。

  そこには継続的に支援していただいていることの感謝と、支援してくださっていることを大いに誇ってくださいという励ましの言葉が書かれていました。

  私は、「これだけでは全然足りてないよな」、「もっと献金できるようになりたい」と思っていました。しかし、支援している私の方が励ましと勇気をもらいました。

  こういった支援する者とされる者との間でも、支え合う、愛し合うということがあることを知りました。こういう愛にとどまるというあり方もあることを知りました。

  お祈りをしましょう。


【 お祈り 】

  わたしたちの父なる神さま、今日もあなたによって命を与えられ、礼拝を献げることができ、ありがとうございます。

  わたしたちは、イエスさまによって神さまの平和のときが来ることを希望をもって待つことができます。今、苦しみの中にいる人たちにも、どうぞ確かな希望を与えてください。そのためにわたしたちが差し出すささやかなものをあなたが用いてくださいますように。

  イエスさまのお名前によって、お祈りいたします。

  アーメン。

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