【主日礼拝】2024.2.4「キリストのいやし」
これは2024.2.4の主日礼拝で、H.Y牧師がお話されたものを書き留めて、話の流れに沿ってまとめたものです。
本文では、『聖書協会 新共同訳』を引用しています。
【 聖書箇所 】
(旧約)ヨブ記 23章1-10節
(新約)ヨハネによる福音書 5章1-18節
【 説教まとめ 】
ユダヤには、過越祭、仮庵祭、七週祭という大きなお祭りがあります。この3つの祭りに、ユダヤ人たちはエルサレムに参拝する慣わしとなっています。イエスさまも、過越祭にエルサレムに上られたときのベトザタの池で38年も病気で苦しんでいる人と出会われました。
この記述は、『ヨハネによる福音書』の巻末に記された一文で、後世につけ加えられたものです。当時の人々は、このような迷信を信じて、いやしを求めて水の中に飛び込んでいたようです。
実際は、水が湧くことで、水面が動くという自然現象でした。
そのベトザタの池で、イエスさまは、38年病気で苦しんでいる男に声をかけられました。
病気で苦しむ男は、「良くなりたいか」という問いとは、ずれた答えをします。それは、その男の苦しみが病気ではないからです。
その男の苦しみは、自分を手助けしてくれる人がいないこと、我先に人々がいやしを求めて飛び込み自分を顧みてくれないこと、自分が誰からも愛されていないことなのです。
そのため、人を恨み、妬み、苦しんでいるのです。イエスさまは、その思いを見抜いて声をかけられました。
ここでイエスさまが言われている「起き上がりなさい」という言葉は、イエスさまの ” 復活 ” と同じ言葉です。つまり、イエスさまは「復活せよ」と言われました。
そしてそれは、イエスさまの復活を信じなかったトマスが、復活の主と出会い、「わたしの主、わたしの神よ」といったように(ヨハネ20:28)、再び主と共に歩むようになったことと同じです。
神との関係が切れていた者、死んでいた者も、死んでも生き、イエスさまと共に歩む喜びを知るようになります。
さて、病気をいやされた男は、喜びに満たされていました。しかし、ファリサイ派から安息日違反をとがめられ、その喜びを失ってしまいます。そして、その違反の責任をイエスのせいにしてしまいます。
イエスさまが言われる「もっと悪いこと」とは、世の思い煩いや苦しみに囚われ、やがて永遠の滅びを迎えてしまうことです。
いやされた男は、病気が治ったことで舞い上がっており、ファリサイ派からとがめられたときには、そのいやしを与えた者がイエスであることを知りませんでした。
知るとは、神の子、救い主であることを知るということです。律法違反をとがめられたとき、その男は世の思い煩いに囚われ、喜びが消えるとともに、イエスとの関係も切れ、死に戻されてしまいました。
そして神殿の境内で再びイエスと出会ったことで、男は、ユダヤ人たちにそのことを知らせ、イエスの迫害者となっていくのです。
このご自身を神と同一視された言葉によって、ユダヤ人たちは、イエスを殺そうと考えるようになります。しかしイエスさまは、私たちの救いをやめません。
この安息日とは、天地創造を終えた記念として、人々が神に感謝を献げる日です。しかし、ユダヤ人たちは、律法主義に陥り、規則としてしか安息日を見ませんでした。
聖書の教えとは、律法主義に与えられたものではなく、互いに愛し合うために与えられています。だから、神は安息日でも働いておられます。
しかし、このことがイエスさまの十字架の死のきっかけとなっていくのです。
ただ今の教会歴は、降誕節ですが、もうすぐ受難節に入ります。イエスさまは、本日の病気をいやされた男のように、神の愛を断ち切って罪の奴隷に戻ってしまう私たちのために、苦しみに遭われました。受難節は、そのイエスさまに思いを寄せるときです。
トマスのように「私の主、私の神」と告白をしたいのです。イエスさまが病気の人に寄り添ったように、私たちも人々の苦しみが和らぐように、寄り添うものでありたいのです。
お祈りをしましょう。