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【主日礼拝】2024.1.7「この方こそ神の子」
これは2024.1.7の主日礼拝で、H.Y牧師がお話されたものを書き留めて、話の流れに沿ってまとめたものです。
本文では、『聖書協会 新共同訳』を引用しています。
【 聖書箇所 】
(旧約)イザヤ書 42章1-9節
(新約)ヨハネによる福音書 1章29-34節
【 説教まとめ 】
新年が明けましたが、年明け早々に痛ましい報道が続いており、「おめでとう」と口にすることがはばかられる気持ちになります。
能登半島の地震、羽田空港の事故、山手線では殺人未遂など、悪い知らせを立て続けに耳にしており、「今年はどんな年になるのだろうか」と、幸せの歩みに戸惑いを感じてしまいます。
私たちは、このような世の出来事に惑わされてしまいます。だからこそ、私たちには『聖書』が与えられており、神からの幸いの招きに目を向けることが大事なことですね。
私たちはクリスマスを祝い、私たちのもとにイエスさまが来てくださったことを確認しました。この希望をもとに、私たちは日々を歩んでいけます。
今日は、そのイエスさまが成長して、洗礼を受けに行かれた時のお話です。
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
ヨルダン川で洗礼を授けていたヨハネが、イエスさまのことを「神の小羊」と証ししました。それは、イエスさまは庶民として生きておられたので、人々はイエスさまに目を向けていなかったからです。
同じことは、イザヤ書でも預言されていました。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。 傷ついた葦を折ることなく / 暗くなってゆく灯心を消すことなく / 裁きを導き出して、確かなものとする。
人々はダビデ王のように力強い王が来られると思っていたので、イエスさまの姿を見逃してしまいます。しかしヨハネが証しすることで、人々はイエスさまに目を向けることができたのです。
このヨハネが「世の罪を取り除く神の小羊」と証しした言葉について、旧約聖書に思い巡らせると、いろいろなことが思い返されます。
イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。
あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。
羊または山羊を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。
遊牧民族であったイスラエルの民にとって、家畜は大きな財産でした。その惜しみなく献げられた小羊の姿は、神に対する献身の姿勢です。
モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。
「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。 そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の2本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口からでてはならない。 主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と2本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。」
イスラエルの民がエジプトを脱出する際に、神はファラオに10の災いを送りました。その10番目の災いで、エジプトの初子を撃たれたとき、その災いを逃れるために小羊の血によって、エジプトの奴隷から解放されました。
彼が担ったのはわたしたちの病 / 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに / わたしたちは思っていた / 神の手にかかり、打たれたから / 彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのは / わたしたちの背きのためであり / 彼が打ち砕かれたのは / わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって / わたしたちに平和が与えられ / 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 わたしたちは羊の群れ / 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて / 主は彼に負わせられた。 苦役を課せられて、かがみ込み / 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように / 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように / 彼は口を開かなかった。
小羊は、苦難の僕として身代わりとなり、私たちの病や傷を負い、神の裁きを受けました。
洗礼者ヨハネは、この「献身」、「解放」、「身代わり」といった旧約聖書の預言を踏まえて、イエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と証ししたのです。
この「罪を取り除く」という言葉は、「罪を担う」とも読める言葉です。
また、ヨハネは「私よりも先におられた」とも証ししました。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
この「言」とは、イエスさまのことです。イエスさまは、天地創造の以前から神と共におられ、神ご自身でもあられます。ですから、ヨハネは「私よりも先におられた」と証しするのです。
イエスさまは、神ご自身ですが、私たちの罪を負ってくださいました。
それは、私たちが人を傷つけながらいて、それが自分自身を傷つける結果となり、滅びをむかえてしまうからです。私たちは、罪と死に囚われています。
水の洗礼は、しるしとしての意味しかありませんが、聖霊による洗礼は、聖なる神の子としてくださいます。
年を越すとは、1つ年をとるごとに死に近づくことを意味します。若いときは、そのことも忘れていますが、年齢を重ねていくと、次第に意識するようになってきます。
また、年始の能登半島の地震の報道などを目にすると、人が死と隣り合わせに生きていることを意識させられます。
羽田空港の事故の映像では、子どもが「神さま助けて」と叫んでいました。こういった命の危機に直面すると、神の助けを求めるようになりますが、この願いは私たちの心に常にとどめておくことが大事なことですね。
神は、失われることのない幸いへと招いてくださいます。
さて、洗礼者ヨハネは、どのようにしてイエスさまのことを知ったのでしょうか。ヨハネは、『ヨハネによる福音書1章31,33節』で重ねて、「私はこの方を知らなかった」と言っています。
そのことはほかの福音書の中で記されています。
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
『ヨハネによる福音書』は、この出来事を前提に話を展開しています。これは、知らなかったことを示されたことを伝えることに集中しているのです。
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ / 彼は国々の裁きを導き出す。
そして、そのことは旧約聖書でも預言されていたことです。
そのことは、イエスさまの方から来られたことで、ヨハネも知ることができたのです。そして、イエスさまも、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と(マタイ3:15)、神の導きに従って洗礼を受けることで霊を受け、人と成ることができました。
今日は礼拝の中で成人式をします。「自分は誰から生まれ、誰に育てられ、誰に感謝をするのか」。そのことを知ることが成人(人と成る)ではないでしょうか。
「イエスさまを救い主である」と信じることができる人は幸いです。この確信こそ、力強い励ましと慰めを与えてくれます。私たちの力ではなく、神の憐れみとご計画によって、私たちは、そのことを知ることができました。
水と共に聖霊がそそがれるのが洗礼であり、神の満たしを得るものです。
まだ受けていない人も、「イエスさまを信じることができるように、新しい心を与えてください」と祈ってください。
洗礼など必要ないという思いは、おこがましいことです。なぜなら、神ご自身であるイエスさまでさえ、洗礼を受けられ、私たちの模範となってくださったからです。
私たちは、それに応じたいのです。そして、人生の柱となってくださるイエスさまと共に歩んでいきましょう。
お祈りをします。