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【 説教14 】「 祝福を限りなく注ごう 」

  これは2023.11.26の子どもと大人が参加する収穫感謝礼拝で、私がお話したものの全文です。

【 聖書箇所 】

  イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。  ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスを入れた。  イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。  皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

マルコによる福音書 12章41-44節

【 説教要約 】

【 説教 】 約19分00秒

  今日は『収穫感謝礼拝』です。

  秋にはたくさんの実りがありますね。私たちは、この自然から与えられる恵みをいただいて生きています。

  今日は、神さまから与えられる秋の恵みを、みなさんに持ち寄っていただきました。

  ありがとうございます。

  このあなたの好意によって献げられた果物を見ると、私たちと共にイエスさまがおられることが、よくわかりますね。

  礼拝では、おもにお金をお献げしますが、旧約聖書で律法に従う人々は、このように大地の産物の一部を神に献げていました。

  その献げ物は、神殿の祭司やレビ人、そして貧しい人々にとって生活の糧となっていました。

  地の作物であれ、木の実であれ、大地の産物の10分の1は主のものである。それは主の聖なるものとなる。

レビ記 27章30節

  今日のお話では、貧しいやもめが献金します。その金額は、今の日本の金銭感覚だと、だいたい100円~150円くらいだそうです。けれどもイエスさまは、「誰よりもたくさん入れた」と言われます。

  この貧しいやもめは、いったい何を入れたのでしょうか。

  今日は、このことについて、御心を深めていきたいと思います。

  今日のお話は、お金を扱うお話ですけれども、お金の話ではありません。

  献金とは、あなたが献げ、与えるものですよね。

  けれども、イエスさまが罪深い女を赦されたときに、「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさでわかる(ルカ7:47)」と言われたように、

  「あなたが与えるものは、あなたが主から受け取ってきたものの現れなのですよ」というお話になります。

  旧約聖書の教えでは、献げ物は10分の1とされていました。

  たとえば、20万円の給料の人は、月々2万円、1000円のおこずかいのお友だちは、月々100円といったイメージです。

  今でも私たちは、その教えを学ばなければなりませんか。

  もし、あなたが「『信仰による従順(ローマ1:5)』について身をもって学びたいな」と思うのであれば、その教えを学ぶべきです。

  けれどもイエスさまは、律法を完成するために来られました(マタイ5:17)。

  それでは、新しい時代を生きている私たちにとっての ” 10分の1 ” とは、なんでしょうか。

  私が中学生のときに、クラスメイトがこんな話をしていました。その話をしているグループの一人に、週末に家族で外食をして回るお友だちがいました。

  その子が月曜日に学校に来る度に、「こんなにおいしいもの食べたことがない。世界一おいしい食べ物に出会った」と言うのです。

  「何を食べたの」と尋ねると、「ピザ」と言っていました。

  そして次の月曜にもまた、「世界一おいしい食べ物に出会った」と言うのです。

  「今度は何を食べたの」と尋ねると、「タコライス」と言うのです。

  だから、「あなたは先週も世界一と出会っていたよね。今回のタイトルマッチ、ピザの王者防衛はどうなの」と尋ねられていました。

  すると、「……どっちも世界一!」と言うのです。

  伝えたいことは、わかりますか。

  事実として世界一は、1つしかありませんけど、思いとして世界一がいくつあってもよいとは思いませんか。

  その子も、決して嘘をついているわけではなくて、ただものすごく幸せな人がそこにいるだけです。そのような人がいると、周りがとっても楽しい気持ちにさせられませんか。

  この私のクラスメイトの思いと同じように、やもめは、生活費のすべてを献げしました。

  けれども、このやもめにとっては、「足りない、足りない、もっと献金したい」と思っているのです。

  これがやもめにとっての ” 10分の1 ” なのです。

  けれども、「生活費のすべてを献げたら、やもめは、どうやって生きていくのですか」と、疑問に思いませんか。

  おそらくやもめは、町の人たちの施しを受けて生きていました。

  この当時、律法は形ばかりで機能していません。御心に反して、貧しい人たちから奪い取るために、律法を悪用している人たちもたくさんいます。

  けれどもこのやもめの境遇に、律法は関係ありません。

  たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。

ローマの信徒への手紙 2章14節

  たとえば、国民的アニメの『サザエさん』をご存じですか。今晩も放映されるのではないですか。

  隣の伊佐坂先生のお宅から、「サザエさん、ちょっと作りすぎちゃって」と、時々、料理をもってやってきますよね。

  いつも同じ家族なのに「『作りすぎちゃって』、なんてあるの」と気になりませんか。

  あれは、おすそ分けが目的ではないのです。

  「元気にしているかな」と様子を見に行く口実なのです。今の東京では、なかなかあり得ないかもしれません。

  けれども、私は九州のものすごく田舎の方の出身なのですが、私が子どもの頃は、こうやって料理をもって訪問してくる人をよく見てましたよ。

  たとえば、「えッ、〇〇さん病気なの」と知ると、隣人たちが次々とご飯を作って様子を見に行くのです。

  たいへんなのはもらう方です。

  病気で寝てるのに、戸口まで受け取りに行かないといけないのですから。

  病人「ごほ、ごほ」
  (戸の音)トントン
  (開く音)ガチャッ
  隣人「〇〇さん元気?大丈夫?
     これ食べて元気になってね」
  病人「ありがとうございます」

  病人「ごほ、ごほ」
  (戸の音)トントン
  (開く音)ガチャッ
  隣人「〇〇さん元気?大丈夫?
     これ食べて元気になってね」
  病人「ありがとうございます」

  病人「ごほ、ごほ」
  (戸の音)トントン
  病人「ごほ……辛い、ごほ、ごほ」

  これけっこう辛いですよ。どんな様子か顔を見るまで心配で心配でしょうがなくて帰ってくれないので、病人も顔が見える範囲まで出て行かないといかないのです。

  それが辛いから、「私、早く元気にならなきゃ」と、みんな元気になるのです。

  そのあとも困るのですよ。

  いっぱい来てくれるので、どの人に、どの食器を返せばいいのかわからなくなるのです。それどころか、「え、あなた誰ですか」と、まったく知らない人も来ます。

  そうやって近所の人の顔を憶えていくのですけどね

  もってきた方もそれで満足して、食器の回収するのを忘れます。それで「あれ、うちに全然、食器がない」とか言い始めます。

  そのうち、友だちの家に集まってお茶してたりすると、自分の家の食器に食べ物が盛られて出てきます。

  そこで「何で私の家の食器がここにあるの」と言います。

  その言われた方も、「私もね、自分のじゃないとは思ったんだけど、〇〇さんから返してもらったから」とか言うのです。

  違うなら「違う」と言えばいいのに、この人たちは、だれの物かということをあまり気にしないので、そのまま受け取ります。

  こういうところでは、食べ物も食器も、地域の共有財産なのです。

  こういうイメージで、やもめは、町の人たちの好意によって施しを受けていました。

  けれどもそれなら、その町の人たちに少しでもお返しするのが筋ではありませんか。

  そうではないから、聖書のお話なのです。

  イエスは言われた。「あなたがたの律法に、『私は言った。あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。 神の言葉を託された人たちが、『神々』と言われ、そして、聖書が廃れることがないならば……」

ヨハネによる福音書 10章34-35節

  これはイエスさまご自身のことについて言われていることです。

  けれども、それは神の教えに従って生きる人すべてについても言われていることです。

  やもめは、この神の律法に従って施しをする町の人たちを、人の働きではなくて、天から遣わされてきた、神からの御使いだと見ていたのです。

  町の人たちは、ただ律法に従って、道徳的な親切心で施しをしただけかもしれません。

  けれどもやもめは、「私はこの自分の手もとに与えられたお金ように、神の律法に従って生きる人々の好意、神からの恵みによって生きている」ということを信じていました。

  むしろ、できることを施しとして与えなさい。そうすれば、あなたがたにはすべてのものが清くなる。

ルカによる福音書 11章41節

  この『すべて』というのは、自分だけでなくて、それに関わるすべての人を清めるということです。

  「町の人たち、あなたたちとともに神はいますよ。インマヌエル。私たちの人生には、神があふれていますよ」と、

  やもめは自分が信じていること、神への喜びと感謝を、その持っている物すべてを献げることによって示しました。

  だから、イエスさまは、「誰よりも多く入れた」と言われるのです。

  そして『やもめが持っていた物(マルコ12:44)』とは、これまで自分が神から受け取ってきたものです。

  「人の手を通して与えられてきたかもしれませんが、そのすべてを私は神から受け取ってきた」という神への信頼を、すべて献げたのです。

  お話のはじめに「このお話は、お金を扱うお話ですが、お金の話ではありませんよ」と言ったことを憶えていますか。

  『タラントンのたとえ(マタイ25:14-15)』の中で、主人がそれぞれのしもべの力に応じてタラントンというお金を渡して、「これで商売をしなさい」と命じます。

  このタラントンとは、今ではタレント『才能』の言葉のもとになっていますね。

  このタラントンのたとえで、イエスさまがあなたに渡したものは、能力などのような才能だけに限りません。

  あなたのお金や立場、豊かな発想力、取り巻いている環境など、あらゆるすべてのもののことです。

  もし、その人が自分のもっているものは、すべて自分の力で手に入れたものだと信じるならば、

  神である主は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は / あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で / 最も呪われる。お前は這いずり回り / 生涯にわたって塵を食べることになる」

創世記 3章14節

  『塵』とは、空しく地に還るものですよね。私たちは裸で生まれて、裸で還ります。私たちはそこに、お金も、立場も、備えていたすべての環境も、何ももってはいけません。

  同じように神さまは、お金はいりません。「あなたが、どのような思いで献げているのか」を見ておられます。

  「あなたがもっているものを、どのような思いをもって、何に使いますか?」ということを見ておられます。

  私が大学2年生のとき、工学部の先輩と講義の中でペアをつくって話をしました。

  そのとき、「ね羊さん、本当に頭のよい人は、どんな人か知ってるかい」と尋ねられました。

  私は、「単にテストの点数がよいとか、みんなから人気のある人ではなくて、国や市町村レベルで賞を受けたり、認められている人のことですか」と答えました。

  すると、「全然、違う」と言われました。私は、「どんな人ですか」と尋ねました。

  すると、「あなたができることを、その人も同じようにできるように、教えることができる人のことだよ」と教えてくれました。

  そして、「その教える内容が難しいことか、易しいことかはまったく問題ではない。とにかく、あなたができることを、その人も同じようにできるように、教えることができる人が、本当に頭のよい人だよ」と教えてくれました。

  その先輩は、「私は研究員になりたいのだけど、専門家だけでなくて、その分野にあまり興味のない一般の人にも、自分がやっていることを教えることができるようになりたい。だから、教育学部の講義を受けに来た」と言っていました。

  勉強だけではなくて、いろんなことを、あなたが人に教えたり、手伝ったりするとき、感謝されると思います。

  けれども、いまいち期待に応えることができず、解決しないこともありませんか。

  たとえ「相手は今、何がわからないのだろうか」と寄り添う姿勢をもっても、相手が、それが何かを答えてくれないこともあるし、そもそも相手自身が、何がわからないのかわからないときが多いのです。

  本当にわからない人は、どのように質問してよいかわからなくて困っています。

  そのことを思うと、「相手に寄り添うためには、『自分はどのように寄り添ってもらいたいか』と、自分のことを振り返ることが、相手のことを知る便りになる」と気づくようになってきます。

  人に教えたり、手伝ったりすることで「自分はどのように教えてもらいたいか、手を貸してもらいたいか」、「どのような教え方だとわかりやすいか、手を貸した方が自分は助かるのか」と考えるようになります。

  それを人に合わせて探していくようになります。

  そうしていると、あなたは誰かに教えるときに、「私はこの人に教えているのではない」ということに気づきます。「私はこの人から、誰かへの教え方を、今、教わっているのだ」ということがわかるようになってきます。

  そして、『主の前にへりくだる』ことの意味を、心が捉えるようになります。

  このお話のはじめに「あなたが与えるものは、あなたが主から受け取ってきたものの現れですよ」とお話をしました。

  献金は、あなたが献げるもの、あなたが与えるものですよね。けれども、与えることによって、反対に 『 自分が受け取るときのこと 』 を思うようになります。

  与えることによって、その受け取り方を学び、受け取るときの喜びと感謝に、あなたの思いが向くようになります。

  そして、「私は与えているのではない。受け取る喜びと感謝を通して、与える喜びを学んでいるのだ」ということがわかるようになってきます。

  「ね羊さん、本当に頭のよい人は、どんな人か知っているかい」。私はその先輩の口を通して神の知恵を教えてもらいました。

  「あなたができることを、
   その人も同じようにできるように、
   教えることができる人だよ」

  与える喜びを教えるために、神は献金という姿勢を律法で示されています。そして、私たちは主と共にそれを行います。主の思いをもって。

  もし、あなたがそれを求めるなら、主はいつもあなたを守り、導き、求めたものが得られるように力を貸してくださいます。

  だから、もし、あなたが身をもって、自分の体を通して信仰という従順を学びたい、その方が自分はわかりやすいと思うのであれば、今も通用する旧約聖書の律法を守るべきです。

  けれども、主が伝えたいことは、

  各自、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

コリントの信徒への手紙 Ⅱ 9章7節

  そして、もし、その「喜んで与える」範囲をあなたがもっと広げたいと思うなら、献金の額を増やしたり、おこずかいの中からそれを出して、「これを失いたくないな」と、少しの痛みを感じることは大切なことですよ。

  そのときは、我慢せずに、自分の力でなんとかしようとせずに、この祈りを祈ってください。

(祈り)
  神さま、私はお金を失うことが辛いです、苦しいです。けれども、私は知りたいと思うのです。これまで私は、あなたから、どのようなものを受け取ってきたでしょうか。それを教えてください。

  「これまで私は、あなたから、どのようなよいものを受け取ってきたでしょうか」と祈ってください。

  あなたの行いと、その思いが一つになるときに、それが何かがわかるようになります。

  神が天の窓を開いて、あなたにも私にも限りなく祝福を注いでくださることに、喜びと感謝をお献げします。

  お祈りをしましょう。


【 お祈り 】
  天の愛するお父さん、私はあなたからたくさんの恵みをいただいています。その恵みについて、わかっていることもあれば、まだわかっていないこともあります。

  献金によって、時には心を痛めることもありますが、あなたの言葉に従い、喜んで献げる者になりたいのです。

  これまで私はあなたから、どのようなものを受け取ってきたでしょうか。人の手を通してあなたから、何を受け取ってきたでしょうか。

  それをこれまで以上に、私に教えてください。

  すべては、私が受け取る喜びと感謝を伝えるために、与える喜びを教えてください。

  アブラハムが楽しみにしていたあなたの日を、私にも見せてください(ヨハネ8:56)。

  この祈りを私たちの救い主であり、主であるイエスさまの御名によって、お献げいたします。

  アーメン。

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