【説教08】2023.1.15「出て来なさい」
これは2023.1.15に、” 新しく生まれること ” について、子どもと大人が参加する礼拝で、私がお話した内容です。
【 聖書箇所 】
【 説教 】 約17分00秒
今日は、”新しく生まれる”ことについてのお話です。その中でも、どうして「朽ちるものが朽ちないものを着る」のかということについて、御心を深めていきたいと思います。
さて、今日の聖書箇所のお話は、いつもと様子が異なります。それは、明らかに未来のことについて話されていることだからです。
私たちはこれからのことについて、はっきりと、いつ、どのように起こるのかということを知ることはできません(コヘ7:14)。
しかし私たちは、自分たちのこれまでの歩みについて、聖書を通して振り返ることによって(出33:9-11、Ⅰコリ10:4)、これからのことについても、それが「どういうことなのか」という神の真意を知ることができます(Ⅰコリ2:10)。
まず、聖書は「光あれ」と始まります(創世1:3)。光とは、何ですか。まず、これをはっきりさせましょう。
箴言に「戒めは灯 / 教えは光(箴言6:23)」という言葉があります。光とは、教えのことなのです。
つまり聖書は、「混沌とした秩序のない世界に、自分勝手に暴虐を働く者の間に、教えよ、あれ」と始まるのです(創世1:1-3)。
そしてイエスさまは、「私以外に教師があってはならない」と言われ(出20:3、マタ23:9-10、ヨハ8:12)、神ご自身も「これはわたしの愛する子、これに聞け(マタ17:5)」と言われます。
聖書は、「天の栄光を現す主の理想とするわが子よ、この世にあれ。このイエスに聞け」と始まります。
イエスさまは、天の父とご自身の中に住んでおられる聖霊のお二方が証ししているので(ヨハネ8:17-18)、「私の証しは真実である」と言われます(ヨハ8:14)。
私たちも同じように、天の父がイエスさまと引き合わせてくださる私たちの経験と体験(ヨハ6:44、ヘブ5:14)、そして私たちの中に記されている神の言葉(エレ31:33、ヨハ5:39)、この2つをもってイエスさまを証しします(創世18:17-19、ヨハ15:26-27)。
けれども、その教えや証しは難しいものではありません。誰かが天に昇って取ってきてくれればいいのに。海に潜って持って来てくれればいいのに。そういうものではないのです。
御言葉はあなたの口と心にある(申命30:11-14)。「あなたが自然とやっていることの中に教えや証しはあるんだよ」と主は言われます(ロマ5:12)。
例えば、私のお父さんは、力こぶがすごいのです。
私「お父さんの力こぶは、どうしてそんなに大きいの」
父「(誇らしげに)ここにはね、昔もちあげた山が入っているんだよ」
私「そうか、すげー、お父さんもう一回持ち上げて」
父「ダメだ、ダメだ、みんながびっくりするからそれはできない」
私「そうだよね、山なくなったら畑のおじさんたち困るもんね」。
これでわかるように、私のお父さんは、まだ本気を出していません。あなたのお父さんも、まだ実力を隠してますからね。よく見ておいた方がいいですよ。
そのお父さんが叱るのです。だいたい私の家ではお母さんが叱るのですけど、たまにお父さんが叱るのです。それはよっぽどたいへんなことだと、子どもは思うわけです。
子供のときって、どこにでも座りますよね。私も公園で地面に座ってお菓子を食べていたのです。すると、お父さんがやって来て、「みっともない。汚い。ベンチに座って食べろ」と言います。だから私も、日ごろからの疑問を投げかけるのです。
私「ほかの友達はどうして地面に座って食べているの?」
父「ご両親がまだそういうことを教えていないんだろう」
お父さんの答えを聞いた私は、「そうか、教えてもらってないから知らないんだ」とわかったのです。
だから、それから友達のところに走って行って、「聞け、友よ、私の父はこう言われる」と預言者をやっていたのです。
けれどもみんな、「あーはいはい、あーはいはい」と聞かないのです。預言者は故郷では敬われないものなのでね。
私のお父さんも、「友達にそういうことするのやめなさい」と言いながら、顔を見ると、にこにこして嬉しそうなのですよ。それは父の教えをしっかり受け継いでいるからです。
あなたも似たようなことやっていませんか。お父さん、お母さんに限らず、先生や先輩、友達、周りの大人の人に、「こういうの良いな」、「すてきだな」、「こういう風になりたいな」と憧れることありませんか。
その人がやっていることだから、その人が言ったことだから、その人が「いいな」と心惹かれていることだから、ただそれだけで私もやる。
ここでは信仰を“信頼”と受け取ってもらうとわかりやすいと思います。あなたは、あなたの信頼するお父さん、お母さんの言葉によってできているのですよ。
なぜ、あなたは悪いことをせず、良いことをしようと心がけますか。あなたの初めのときを思い返してみてください(申命4:32)。
悪いことをしたら、あなたのお父さん、お母さんが悲しむから、良いことをすれば、「さすが私の息子」、「さすが私の娘」と喜ぶから、ただそれだけではありませんでしたか。ほかに理由がありますか。
ときには叱られます。それはつらいことだと思いますけれど、どんなに怒られてもお父さん、お母さんを心の底から嫌いになることってないでしょ。
それはあなたの心が信頼しているからです。それどころか、「どうしたらお父さん、お母さんの喜ぶ子どもになれるだろうか」と思い巡らせていたりしませんか(ルカ10:22、Ⅰヨハ3:2)。
聖書も同じです。私たちは救いを受けて、天のお父さんはこの方だと知りました。けれども、なぜ、イエスにあって生まれた後も聖書の教えを守りますか。天のお父さんが喜ぶからでしょ。それ以外に理由はありません。
イエスさまの中にもっておられるものも、こういった「僕のお父さんがね」、「私のお母さんがね」と、私たちと同じものをもっていることがわかりますか。
これが渇くことのない永遠の命に至る水なのです(詩42:2、ヨハ4:14)。
では、天のお父さんは、どのようにして語られるか。
例えば、私は30歳くらいまで、人に「ありがとう」とお礼を言うことができなかったのです。
手を挙げる必要はありません。この中にもいらっしゃいますか。照れくさいとか、恥ずかしいではないのです。
言いたくない、抵抗がある、何かを失う気がするとか、ほかには、この人にはお礼を言いたくないとか、今言える状態ではないということが、自分の中にも少しあったなと思う人いますか。
そのようなことがない人はすばらしい。そのままでいてください。この話を聞くと、なぜその人たちはあんな態度をとるのかがわかります。
私が、なぜお礼が言えなかったのかというと、「ありがとう」というと、「こんなの簡単だよ」とか、「俺がいないとダメだな」とか嫌味や皮肉が返って来ることが多かったからです。
実際は、「いつでも手伝うよ」とか優しい言葉をかけてくれる人も半々くらいだったと思います。けれども、私は悪い方の言葉の印象が強くて、私がそっちばかり選んで聞いていたのです。だから、人に頼みごとをしたくなかったのです。
けれども中学2年生のときに、どうしてもわからない問題があって、友達に教えてもらいました。すると、自分の勘違いですごく簡単な問題だったのです。
でも、お礼が言えないから、「ごめんね、こんなに簡単な問題だったんだね。こんなのも解けないなんて俺ってダメだね」と言いました。すると、その友達の言ったことがすばらしかった。
友 達 「おまえは俺が教えてできるようになったのに何で喜ばないのだ。俺が聞きたいのは、ごめんじゃない、ありがとうだ、俺に感謝しろ」。
そのときは、「なんだよ、あいつ」と腹立てたのです。悪いのは、こっちなのですけどね。けれども、今だからわかるのです。これがイエスさまに引き合わせるための、天のお父さんの声なのです。
それから似たようなことを何度も何度も言われて、「あのとき言われた言葉だ」と、ずっとその友達の言葉が残っているのですよ(ルカ22:61)。
お礼を言うのも嫌なんです。けど、お礼を言わずに、「何その態度」とか、「偉そう」とか文句を言われるのも嫌なんです。
それがだんだんだんだん、文句言われる方が嫌という思いが強くなって、「お礼をいう方がましかな」という気持ちになってきました。
それで、こめかみを怒りでぴくぴくさせながら、「ありがとう」と逆切れしながら言うようになってきたのです。
するとやっぱり、「何そのいい方」と文句言われるのですけど、中には「まぁ、お礼を言ってくれたからいいかな」と言ってくれる人もいたのですよ。そしたら、ほわっと心が少し軽くなるのです。
そういうことを20年くらいうだうだやっていました。そして30歳のときに、「何だその態度は」と、これまでにないくらい怒られたのです。そして、徹底的に「ありがとう」という練習をさせられました。
私「ありがとう」
友人「暗い。もっと明るく」
私「ありがとう」
友人「もっと心を込めて」
私「ありがとう」
友人「それ、それがあなた。わかった、それがあなただよ」
私「(これが僕なのか)」
こういうことがあって、やっと人にお礼をいうことができるようになったのです。ここからわかるのは、主は15年間、私に忍耐されたということですね(出34:6-7)。
そして聖書を読んで、「あのとき友達の口を通して主が言われたのは、これだな」とわかったのです(創世2:7、ヨハ20:22、Ⅰコリ12:7-10)。
この言葉に従ってモーセは、ヘシュボンやバシャンの男も女も子どももすべて滅ぼし尽くしました(申命2:34,3:6)。
少し心を閉ざしてしまいそうな言葉です。こういったものを見ると、教会の外の人たちは、「なんと恐ろしい教えだ」、「こんな神は信じられない」と言います(ヨハ6:60)。
けれども私たちは知っています、「イエスはつまずきの石である」ということを。
イエスさまは、「新しく生まれないと神の国を見ることはできないんだよ」と言われました。けれども二コデモは、「どうして年をとった者が母から、また生まれることができるでしょうか(無理ですよね)」と言ったのです(ヨハ3:1-15)。
イエスさまが求めておられるのは、そんな言葉ではないのです(ヨハ4:10)。ペトロのように、「それはいったいどういう意味ですか」と尋ねないといけないのです(マタ13:10-17)。
これが「渇くことのない水を、私にください」という言葉です(ヨハ4:15)。
ヨハネの洗礼は、神に“悔い改め”の意志を示す、ただの儀式だったのです。けれども、イエスさまの十字架の贖いが完成することによって、そこにイエスの死と埋葬、復活の神の業が働くようになりました。
同じように、重要な事実や出来事、古い教えを伝えていた『旧約聖書』から、聖霊が与えられることによって、隠された新しい教えを受け取ることができるようになるのです(箴言25:2)。
そして、『旧約聖書』の一つの働きとして、「見えない戦いが、目に見えてどのように繰り広げられているのか」ということを示しています。
カナンの地はイスラエルの民の嗣業の地、与えられた土地です。今の私たちに与えられた土地とは、どこですか。パウロは、「あなたがたは神の畑なのです」と言いますよね(Ⅰコリ3:9)。
私たちに与えられた土地とは、私たちの体です。神はそこから悪いものを抜き去って、御言葉の種を植えられます(エレ31:27-28)。
つまり、このお話での滅ぼされた男・女・子どもとはこういう意味です。
男は頭、リーダーのことだから、あなたが誰に言われるでもなく疑いようもなく「これって、こうでしょ」ともっている強い思いや考えのこと。
女とは従う者だから、「自分は強くそうは思っていないけれども、周りがみんながそうだから、角を立てないように自分も合わせておこう」という控えめな思いや考えのこと。
子どもとはまだよくわかってない者のことだから、言われてみると確かにそうかもしれないと芽生えたばかりの小さな思いや考えのこと。
そして、女の頭は男、男の頭はキリストですから(Ⅰコリ11:2)、「それが神に背くものであるなら、すべて滅ぼされますよ」、「主の目に適わないものを滅ぼしなさい」ということです。
だから主は、私のもとに来られて、「ごめんねじゃない、ありがとうだ」、「嘆くな、喜んで感謝しろ」、「あなたの中に働く悪い言葉を強いもの小さなものもすべて新しい言葉に入れ替えろ」と言われたのです。
すると、イエスさまの言われることがわかりますよね、「口に入るものは人を汚さない、口から出るものが人を汚す(マタ15:10-11)」。
わかりますか。私は、「こんなのも解けないの」と嫌味や皮肉を言われたくなかったのです。だから自分から、「こんなのも解けないなんて、俺ってダメだね」と言って、ほかの人から言われないように、その言葉で自分を守っていたのです。
けれども、自分自身に嫌味や皮肉を言って(Ⅰコリ4:3)、その言葉が自分の中にたまって、私はほかの人にも嫌味や皮肉を言う人になっていたのです(Ⅰヨハ2:11,3:15)。
イエスさまは、暗い洞穴の中に眠るラザロを生き返らせるときに、どうされましたか。
大声で、「出て来なさい」と叫ばれましたよね(ヨハ11:43)。
「私たちの中にある悪いものに目や耳を向けずに、イエスの言葉を聞け、外にある聖書の言葉に目を向けろ」と言われているのです。預言者エリヤも、そうやって洞窟から出て来ましたよね(列王上19:9-18)。
それがイエスさまの示された、「私は復活であり、命である(ヨハ11:25)」というしるしなのです。
ですから私たちは、今は外にある聖書の言葉を私たちの中に収めます(マタ6:32-33)。そのことは『ヨシュア記』以降に描かれています。
けれども、この言葉は新しく私たちの中に入ってきたものですか。
そうではないんですね。信仰の父アブラハムは、どこで眠っていますか。カナンの地で眠っていますよね(創世25:7-10)。「あなたが求める前から、私はある」、「私はあなたの中にいる」と主は言われます(出3:14、マタ1:23)。
私は、態度の悪い人とか、人の陰口を言ってたり、素直じゃない人たちを見てると、もちろん腹は立ちます。けれども、それ以上に可哀想にと思います(マル3:5)。
なぜなら、昔の自分の姿を見ているようだからです(ロマ7:18-24)。
これが「朽ちるものが朽ちないものを着る」ということです。あなたも、私と同じことを知るようになります。すでに知っているはずです。
このほかにも、あなたが命に至るまでに通った苦い経験や体験は、同じ苦しみの中にある人たちに寄り添うことができます(ルカ13:15-16)。
「あれはあの時、一人で悩んでいた自分だ」
「あれはあの時、裏切られ傷ついていた自分だ」
「あれはあの時、素直になれなかった自分だ」
あなたは自分を助けることに理由がいりますか。自分を愛するように隣り人を愛しなさい(マタ25:40、ルカ10:25-27)。そして互いに愛し合いなさい(ヨハ13:34-35)。
終わりのときには、このようなお互いを思い合う人たちが主と共に生きるようになります。
私たちが神の言葉によって建て上げられ(Ⅰコリ14:3)、私たちと共に働く主を誇ることができますように(エレ9:23)、お祈りしましょう。
【 お祈り 】
天の愛するお父さん、私たちがあなたを求める前から、あなたは私たちの中に眠っておられました。
あなたは求める前から私たちに必要なものをご存じです。あなたの言葉で私たちを日々新しくして、光の子としてください。
あなたが語られた言葉を思い巡らし、聖書によってあなたの深みを知ります。私たちのうち側から、あなたの似姿へとなりますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
(創25:7-10、出3:14、詩5:1-4、マタ6:7-8、ヨハ1:12-13、Ⅰコリ2:10参考)