【主日礼拝】2024.3.3「行く途中で」
これは2024.3.3の主日礼拝で、ゲストとして招かれたM.W隠退教師がお話されたものを書き留めて、話の流れに沿ってまとめたものです。
本文では、『聖書協会 新共同訳』を引用しています。
【 聖書箇所 】
(旧約)イザヤ書 52章12節
(新約)ルカによる福音書 17章11ー19節
【 説教まとめ 】
重い皮膚病とは、口語訳では『らい病』と訳されていました。その原文はレブロスといい、らい病やハンセン病のことですが、それ以外の重い皮膚病も含まれていました。
そのため新共同訳では『重い皮膚病』、共同訳では『規定の病』と訳されています。
しかし、「このような記載は、らい病によって苦難の歴史、差別の記録が失われてしまうのではないか」と憤りを覚えられる方もいるそうです。
あなたは、どう思われるでしょうか?
私は、「重い皮膚病(らい病)」と記すのが妥当かなと思っています。
さて、イエスさまがカファルナウムからガリラヤへと向かわれる途中で、10人の重い皮膚病を患った人に出会われます。彼らは「憐れんでください(エレイソン)」と、離れたところから大声で叫びます。
その姿を憐れんだイエスさまは、「祭司のところへ行って見せなさい」と言われました。祭司が皮膚病が癒えたかどうかを判定するからです。
その行く途中で、人々は癒やされました。その中の一人は、イエスさまのもとに神を賛美しながら戻ってきました。それはサマリア人でした。
この出来事について、2つのことに注目しながら、読み深めていきたいと思います。
【 感謝した 】
10人が癒やされ、戻ってきたのは1人でした。ほかの者は自分の生活に戻ったのでしょう。
私たちは、どうでしょうか?
「よかった」、「助かった」、「得をした」と、その場限りの感謝をしていないでしょうか。
「憐れんでください」という思いは、主の慰めと励ましを受けた喜びと感謝は、助けてくれた人に感謝をして、その方を模範として生きる生き方へと変わらないでしょうか。
私は若い頃、悩みや不安を抱えていて、とても暗い顔をしていました。そのときに、『汝、受け入れられたり』という説教と出会いました。
「汝、受け入れられたり
汝より大きな人に受け入れられたり
何も求めず、行わず
受け入れられたことに思いを向けよ」
自分の肯定とは、主が受け入れられた自分を受け入れることであります。
「運がよかった」、「得をした」だけでは、元の生活に戻るだけです。しかし、救いを受けた人への感謝は、新しい生き方を手に入れることであり、受け入れることです。
【 行く途中で 】
彼らは、「先に清められないと、祭司に見せても意味はないのではないか」と思ったはずです。けれども、人々はイエスの言葉を信じて歩き出しました。
私たちもそうであるのではないでしょうか。私たちは家庭であったり、仕事であったり、個人的なものであったり、いろいろな問題を抱えているものです。
その問題を抱えながらも歩みだすことによって、その問題が解決することや、その糸口が見つかったりするのではないでしょうか。
私たちは、身軽になって歩き出すのではありません。問題があるうちに歩き出すことで、主の励ましがあるのです。
これはバビロン捕囚から解放されたときに、イザヤが預言したものです。この語りかけは、私の愛称聖句でもあります。
「主はあとしまつもしてくださる」と、私は受け止めています。とてもありがたいことです。
私たちの行く途中の歩みは、どうでしょうか。
お祈りをします。