ヒダリメの鴉 月下の迎え③
舞い上がった粉塵の向こう側で、青年の声が響く。それは分かりきったことを嘆く、感情のない音だった。
「人間は乱暴だよ。」
次第に煙が晴れてゆくと、揺れる影が濃く浮かび上がってくる。
「首が折れてしまった・・・」
青年はまた、感嘆めいた声で呟くも、緊張感の足りない声は、昼下がりのような、どこか間の抜けたのどかさを孕んでいた。私は彼の言葉と目に映る世界のグラデーションに、倒錯めいた気持ち悪さを覚えた。おぼろ気な影だった青年の姿は、いよいよ確かな線を描き出している。その姿は、異形と呼ぶに相応しいものだった。首はへし折れていた。強力な力で折られたことが一目でわかるほどに、無残に折れ曲がっていた。一瞥の瞬間に、鮮烈な死が、私の目に飛び込んできた。死んでいる・・・・・。死んでいる。・・・この男は死んでいる!空気がざわざわと、嫌な肌触りになった。およそ死においては、直感ほど確かな実体をもつものもなく、しかして目の前の青年はそれでいて動き、さらには喋っている。瑞々しい死を纏って、また生々しい肉肉しさを持っている。生と死が混在するという、単純さが、むしろよけいに不可解を生んで悍ましく、得体の知れない悪魔に、舌の先で転がされるているような気分だった。青年の首は、ごきりと小さな音を立てると、反動で返るかのように勢いよく元に戻った。このまま、ここに居てはいけない。このまま、この青年を生かしていてはいけない。なにか途方もない不吉の足音に、私はそう思った。
「私たちにも、痛みがないというわけじゃないんだ。」
穏やかな口調で青年はそう言った。あの手を取っていたら、私は本当にどうなっていたのだろうか。塵が落ちていく。露わになった青年は美しかった。
「人間。お前たちは愚かだ。あまりにも。私が何者であるのか分かっていたのなら、剣を向けるべきではなかった。」
「俺はハンターだ。目の前に異形がいて、ほっとけるわけねえだろ。しかもそいつが、幼馴染を襲ってたなら、なおさらな。」
「襲う?何か誤解をしているらしいな。私はお迎えに上がったのだよ。」
「迎え・・?どういう意味だ。」
「知る必要はない。」
そう言った途端、青年は床を滑るようにベルに迫った。
一切の予備動作はなく、音もなかった。「あっ」と幽かな声を漏らす、声が音になる前の、ほんの少しの吐息の間に、青年は距離を縮めていた。
身構える隙も、剣を振りかぶる隙もなかった。瞬く間に二人の距離は無くななり、ベルはすんでのところで青年を押し止めたが、急襲に体制は崩れ、腕の力だけで支えられた剣は、カタカタと音を立てて震えていた。
青年の胸から、巨大なカラスが頭を出していた。
巨大なカラスは口ばしでベルの剣を咥え、そのまま胸から出ていこうとするように剣を押していった。ベルは体勢が崩れ踏ん張りがきかない。
上から押されるようになって、後ろに下がることもできなかった。
剣はじりじりとベルに迫っていく。
カラスの頭は首が見え始め、切っ先が右肩に触れて、溢れ出した血が服に滲む。カラスの力が弱まることなく、剣はさらに押し込まれて、ゆっくりと、滲んだ血が切っ先を滴って、床に落ちた。血だまりが床に広がっていく。
それでもベルは耐えていた。傍目には今にも崩れそうであったが、寸でのところで決定的な敗北を食い止めていた。カタカタと音を立てていた剣は、肩の骨に当たって動きを止めている。
カラスの力は強かったが、骨を断つには勢いが足りなかった。
ベルはそれが分かっていて、押し返せないと見るや、骨で受けたのだった。ここに戦況が膠着する。ベルにカラスを押し返す力はなかったが、カラスもまた、ベルを押し切るほどの力を出せずにいた。押すも引くもできぬ状態で、戦いはいよいよ根競べの様相を呈し始めた。耐え抜いた方が勝つと、
ここが戦いの分水嶺だと、互いが理解している。覚悟を決めた少し冷えた吐息が縷々と零れだして、底に溜まった。
しかし体勢の悪いベルは、腕の力だけで支えなければならず、他の力を使えない分、長期戦は不利である。すでに腕の筋肉はパンパンになって膨らんでいる。ただ耐えているだけでは、ベルが押し負けるのは時間の問題だった。どこかのタイミングで、勝負に出るほかにない。
血が切っ先を滴る。さらりと落ちて、血だまりで跳ねた。
カラスの頭がぐにゃりと波打った。途端に力が抜けて、ベルは軽くなった剣でカラスを振り払う。思いも寄らず生まれた千載一遇のチャンスに
ベルは剣を引くと、青年に斬りかかった。が、すぐにそれは中断しなければならなかった。カラスがベルに向かって口を開けていた。
その口の中に、一回り小さなカラスがいて、待ち構えていたように、ベルを見つめていた。その瞳を見た瞬間に、ベルは自分が罠にかけられたことを悟った。弾かれたように口の中から小さなカラスが飛び出す。口ばしは鋭く、心臓を狙っている。咄嗟に振りかぶった剣を引き寄せたが、
受けた衝撃は、ベルの体を易々と空中に打ち上げた。カラスは男一人を飛ばすも、勢いを保ったまま、蛇のように首を伸ばし、ベルをさらに押していく。足のつかない空中で抗う術はなく、カラスの首はそのまま、工房の壁に突っ込んで爆煙を上げた。
開けた穴から、カラスが顔を引き抜くと、粉々に砕かれた石壁の瓦礫が、いくつも床を転がった。それから剣が床を跳ねる音が鳴り響いた。
カラスの首は役目を終え、どろどろの液体に溶けながら、宙に消える。
爆煙が晴れていく。落ちた煙が床を這った。窓ガラスがギラギラと光っている。私は瓦礫のようにベルが落ちてくるのではないかと思って、どこか遠くでこの景色を見ているように、心臓の音が遠くなった。
しかし爆煙の中にベルの姿はなかった。ベルは壁に叩きつけられる寸前に剣を離して離脱していたのである。しかしこれでベルは剣を失ってしまった。他に武器になるようなものもなければ、硬い口ばしの突きに、肉は容易く貫かれてしまうだろう。剣を拾うより他にない。しかしその素振りを見せて、許してくれるような相手でもない。ベルは青年の気を紛らわせようと口を開いた。
「大した力だよ。お前は、俺が出会った異形の中で間違いなく一番強い。」
「誉めているのか?」
青年は失笑した。
「少し違うな。ただ、まだ名前も聞いちゃいなかったと思ったのさ。それとも、異形に語る名はないか?」
「名か・・・。」
青年はまたちいさく笑った。
「いいだろう。カラスで死ななかった褒美だ。」
そう言うと、青年は誇らし気に名乗った。
「我が名は、ティムアペア。」
「ティムアペア・・・。その名、誰から貰った。」
ベルは人型の異形と対峙したことはなかった。その存在も噂程度に聞いたことがあるだけだったが、異形が名を持っているという話は聞いたことがなかった。
「知りたいのなら、また生き残って見せろ。そうすれば、教えてやろう。」
美しい顔で、青年は微笑んだ。