ヒダリメの鴉(長編ファンタジー)
もし、世界があなたを殺すというのなら
私は、あなたのために
―世界を滅ぼそう
男は木の根に腰を下ろした。その瞬間に男を襲ったのは、抗い知ることのない途方もない疲れだった。体の筋肉は容易く役に立たない機関に成り下がった。甘い汁が細胞の間を満たしていくように、甘美な陶酔に落ちていく。男はそうなると分かっていて、今の今まで休まなかった。意識を保つためだけに、体を動かし続けてきた。ほかに一切の目的もなく、逃れられぬと分かっていて、ただ死から逃れようと歩き続けた。歩けども歩けども、底なしの穴。歩けば歩くほど、死の宣告は鮮やかである。身体は満身創痍、仲間も失い、帰り道も分からない。月光も届かない、深い森の奥で、男の呼吸は、ただ小さく、小さく……。命が尽きていく感覚がする。男もそれを望んでいる。それなのに、死ぬというのもなかなか簡単なものではないようで、男にこれ以上生きる意思はなかったが、だからといって体がそれに応えるというわけでもないらしく、眠りにつけば、朝の予感がする。闇の森で朝もないはずなのに、絶望のベッドで眠れない。それでも朝が来る。これほど残酷なことがあろうか。長く闇の中にいれば、やがて思考が冴えてきた。忘れていた恐怖心もぶり返してきた。思えば、男は誰よりも森を恐れていた。それが今や誰の声も届かない闇の中で息絶えようとしている。樹冠は厚く、森の中は、わずかな光も許さない。ランプの火もじきに消えるだろう、ジュボッ、ジュボッと音を立てて、炎は舞踏のように揺らいでいる。森の底なしの闇も、それに合わせて踊っていた。男はそれを眺めて、鼻で笑うだけだった。仲間たちは、何かの幸運で生き残れてはいないだろうか。今、男が思うのはそれだけだった。仲間をすべて失い、自棄になってさらなる森の奥を目指した。人類未踏の地を踏むこと三日、外から推測される森の大きさを、森はすでに超えていた。それでもこの森はまだ奥へと続いている。せめてもの報いもなく、疲れ切った体が木の根に沈んでいくようだった。死んで森の一部になるということは、私という存在が世界から完全に抹消されるような気がした。呼吸がゆっくりと、けれど力強く、よく聞こえている。音もたてず、ランプの明かりは消えた。闇も見えなくなった。どれだけの時間が経ったのかは分からない。けれど男は幻を見ているのだと分かっていて、目の前の事象にあまり驚きはしなかった。しかしそれが幻ではないと分かってくると、男の体は夢を思い出したように、熱を取り戻すようだった。目の前を光が駆けていく。それは魚群のように、ちいさな命の輝きのように思えた。尾を引いて駆ける無数の流星。闇の中を光の川が流れていた。幾千の命だったそれは、やがて幾万の命へとなり、男を包み込むように流れていく、光のトンネルとなって、奥へと続いている。森の奥へ、もう見えなくなっていた闇の先へ。男は導かれるように、茂った低草を踏みつけて、また歩き出した。光の川は穴へと続いていた。大人が入るにしてはやや小さい、穴というよりは岩の隙間。入ることはできても、出ることはできないかもしれない。男は体をねじ込んでいった。ゴツゴツとした岩が男の侵入を拒むかのように皮膚に突き刺さってきた。血も出たかもしれない。光の川はこの間にも男を導くように流れている。男は一心にもがいて、そして穴を抜けた。低草が一様に生えて埋め尽くしてはいるが、ぽっかりと空いた伽藍洞。男はややぬかるんだ土を踏んで、その先で、白い少女と出会った。
「だから・・・!」
ガイネルは声を荒らげ、拳で机を叩くも、我に返ったように動きを止めた。外では土砂降りの雨が、機関銃のように激しく屋根を打っている。車いすの老人が、相もかわらず睨むようにガイネルを凝視していた。過去の面影の消えた、このやせ細った老人を、ガイネルは見るのさえ憚っていた。白髪の老人は、すでに骨と皮だけになり、皺が顔に深く走る。ブランドものの黒いスーツの上からでも分かる、棒きれのような手足。死を纏うような老人である。およそガイネルならば、腕一本で組み伏せれてしまうであろう、この老人が、彼にとって今もっとも頭の痛い存在だった。老人が口を開くと、ほうれい線が憎たらしく流動した。
「腑抜けたか!」
やはり声も憎らしい。私は力なく答えた。
「私たちは、バベルを築いたんです。」
とっとと老人には出て行ってもらいたかった。老人の魂の熱は、私には熱すぎた。
「あの猛将ガイネルでさえも・・・この様か‼」
憎たらしい声に、私はカッと奥歯が熱くなって、ヒステリじみて叫んだ。
「私たちは変わったんですよ!いつまでも、あなたのように、夢を追う子どもではいられんのです!」
ガイネルは拳を握りながら深く息を吐いて、うなだれて見せると、穏やかな口調に戻っていた。
「帰ってください。あなたはもう軍の関係者じゃない。ここに、入ってきていい人間じゃない。」
「勤勉になって、飛ぶことを忘れたか?」
「いいえ、飛ぶことの愚かさを知ったのです。」
顔を舐め上げるような老人の言葉にも、私は眉一つ動かさなかった。老人は暫く私を見つめていたが、小さく鼻を鳴らすと、諦めたように車いすを回す。去っていく老人の背に、私は投げるように言った。
「もしあなたが、それでも夢を追うというのなら、私は・・・・」
老人は半笑いの笑みを浮かべて振り返った。
「どうするのだね?」
一瞬で去る、永遠の沈黙。
「殺すかね。恩人を。殺すかね?」
私は言葉が出てこなくなった。
「お前が俺を殺せる人間だったなら、こうはならなかったのさ。」
老人が車いすを戻すと、ゆっくりと車輪は回った。
「さようならだ!ガイネル統帥!」
朗々とした声が、部屋の中で木霊して、私は負けまいとして叫んだ。
「どこへ行こうと!あなたの夢が叶うことはありませんよ・・・もう、絶対に。」
「そうかい。」
車輪のねじが嫌な音を立てていく。束の間も、雨足はゆるまない。土砂降りが降り続いた。
クリムゾン通りを右に曲がる。赤レンガの真っ赤な小路はガタガタで古びている。あの落ちた破片も、やがて塵に変わるだろう。看板も風化で滲み、読めない。店名も分からない店ばかりだ。私がこの道を好んで通るのは、人に出くわさないからだった。私は埃にまみれて白けた廃店の窓ガラスで前髪を直した。二つ目の十字路を左に入り、すぐに質屋があって、人家を挟んだ先が、カフェ『コワイモノシラズ』だった。扉は朝の湿った空気に少し重たくて、物覚えの悪い店主がカウンターに立っていた。私が入ったにもかかわらず「ご注文は?」の一言だけで、私はメニューも見ずに注文を済ませて、日当たりのいい左側四人掛けのソファー席へ腰を下ろした。他に客もいないので、気兼ねもなかった。店主がコトコトと動くのを背中で感じながら、私は薄汚れた窓から人のいなくなった赤レンガの町を眺めていた。店の天井の隅では、壊れかけのテレビがノイズ交じりの音を上げている。キチガイじみた高音を暴風雨のように鳴らしながら、朝のニュースを読み上げる。またどこかで誰かが死んだらしい。それもどうやら幼い子のようだった。
「かわいそうに。」
そう呟いたとき、店主がたまごサンドを運んできた。私は独り言を聞かれたかと思って羞恥心にひやひやとしながら、お皿に小さな会釈をした。次のニュースが流れ始めた。画面が切り替わって、同時に映像にはひどいノイズが走りはじめる。白黒の画面の端ではほとんど何か分からなくなった。女性キャスターは淡々とした口調で語っている。
「昨晩、―近郊、――、―消失しま――方々は・・・」
よく聞き取れない。しかし私には分かっていた。どうやら、一夜にして、街がひとつ消えたらしかった。ニュースはそれを伝えているようだった。私はさほど驚かなかった。そればかりか、私はそれを知っていたような気分になった。画面は依然としてノイズだらけでほとんど映らなかったが、私には、そこに映像が浮かんでくるような気がした。キャスターの声が次第にはっきりと聞こえるようになってくる。机のコーヒーが揺れている。私はこのままテレビを見続けることが、何かとてもおそろしいことのように思えて、中指をしきりに机に打ち付けていた。乱れていた映像も鮮明さを取り戻し始めると、店主がグラスを拭く音が、いやにリズミカルだった。テレビの画面に映っていたのは、やはり私が思っていた景色と似ていた。破壊された家。コンクリートの壁は脆く崩れ去り、積み上がった瓦礫の山を粉塵の風がさすらっていく。空気は灰色に淀み、崩れかけの塔が、遠くで無残な影となる。解き放たれた風が、じゃれるように空中を自由に駆け、荒廃を吹き曝すのだ。行くあてのない被災者が、列をなして歩いていた。まるで目的地を知っている巡礼者のように。私はこの街で何が起こったのかを知っていた。それも、きっと今日よりも前に。
「森蝕だね。」
誰に言うべもなく店主が不気味につぶやいた。その言葉の通り、街を一夜にして瓦礫の山に変えたのは森だった。森が急激な勢いで成長して、人が住んでいた街を呑み込むのだ。枝は壁を貫き、根は地面を隆起させ、地形そのものから変えてしまう。大地は割れ、吞み込まれた人々は圧し潰されて、その声すら響かなかった。教会は潰れ、鐘は落ち、噴水は砕けた。森の侵攻に、私たちの世界は、脅かされていたのである。未だ悲劇の語り部は、淡々と事実だけを伝えていた。早くその声に、憐憫と涙をのせてはくれないかと、私は願ってやまなかった。私は温かいうちにコーヒーを飲み干してポケットから出した小銭を置いて店を出た。
ガイネルは労わるように、ゆっくりと腰を下ろし、厄介な老人がいなくなった扉の先を見つめていた。このイスに座るようになってから、頭を抱えてばかりだった。不運が次から次へと運び込まれてくるのだ。誰かが手引きしているのだとしたら、思いっきり殴ってやりたかった。そうすればどれだけ気持ちいいだろうか。ガイネルは眼鏡をとって眉間をぐっと押さえた。それは彼にできる唯一の儀式だった。しかし僅かな時間すらなく、次の客が現れた。錆びたブザー音。壁際の棚に追いやって、ほこりをかぶっていた古い受信機が音を上げたのだった。それは小汚い産声のようだった。私は特別なことは何もないように、至って自然に立ちあがって歩いていった。幸運という小動物を脅かさないように。そして受話器を取る。砂塵のノイズが脳を駆け巡る。私は受話器を耳に強く押し当てた。だが何も聞こえない。まだ何も聞こえない。それでも私は受話器を押し当て続けた。やがて砂塵の中で、星が瞬いた。幽かな音が聞こえはじめると、それは次第に大きくなっていった。ガイネルは近くにあった紙を引っぱり、聞き取った内容を書き殴っていく。通信が短い内容を繰り返していたのは幸運だった。ぷつんと通信は途絶えた。砂塵のノイズも受話器の奥で小さな寝息を立てている。ガイネルは受話器を元に戻すと、そこに書いた文字を見つめた。通信は暗号になっていた。古典的なコード暗号。ガイネルは暗号書を取り出して、一文字ずつ、受信した暗号を置き換えて、出来上がった文章を読み上げた。
「B73・・・・・F903・・・発・・白い少女・・・」
ガイネルは笑みを浮かべた。
その日、私は夢を見た。それは恐ろしい夢でもあるようであり、楽しい夢でもあるようだった。カフェから逃げるように帰って、しかしその日はそれから、何事もなく夜が来て、過ぎてゆくとりとめもない一日だった。だからこそ、この夢も、ただの夢であるはずなのに。私は闇の中を駆けていた。真っ暗で、何も見えない闇の中を、ひらめく蝶が草原を飛び回るように、そこで私は何よりも自由だった。どこまで行ってもこの闇は終わることがない。けれど私もそれを望んでいない。無限の闇の中にいれば、いつまでも楽しく暮らしていけるような気がした。私たちは闇の中でかけっこをした。かくれんぼもした。縄跳びもした。それはどれも記憶の回想とは違った。遊んだことのある誰とも違った。
「・・・あなた、誰?」
私がそう呟いて、夢は終わった。目が覚めると、淡い胸さわぎが残っていた。