ボキャブラリーといえば、言語的な語彙についてのことと考えるが、必ずしもそうではない。 私の場合は、美術作品の制作時に使う非言語的な語彙(この言い方が現状の最適解)によって思考し、作品や自分と対話しながら作り、作らされる。これは作曲や踊りにおいても同様である。そして、これらの語彙はある程度までは翻訳可能であるが、それ以上は翻訳不可能な領域が存在する。 したがって、非言語的な語彙によって思考、表現されたものは、言語的な語彙によって表現し得ない領域が内包されており、またそのこ
私は踊る人である。 ただ、身体を動かす。 身体は不思議なもので、自分の心の奥底にある思考や感情を、剥き出しにして立ち現れている。身体は自然である。 精神は不自然である。意思によって思考、感情に制限をかける。自然な身体を不自然な形に変形させる。そこには目的がある。 精神によって作られた身体の形は、精神の求める目的のためにデザインされている。ここに、身体と精神の一致を見る時、目的と心の向かう方向は同一であり、調和の取れた快状態となる。 ところが、身体と精神が不一致
勘というものを考える時、感覚や感性などを類義語として参照するのだが、畢竟これらは違和感へと還元されていく、と考えている。何かをするときの心と意思の摩擦を違和感とする。 勘の良さとは未知のことを直感的に把握するような、超能力的なものではなく、なにかしらの違和感を無視することなく受け入れることである。その違和感をいかに展開し、敷衍し、自らの解釈を推し進めるのか、は勘の良さとはまた異なる領域の話である。 したがって、如何にして勘の良さを磨くのか、といえば、どれだけ自ずから自ら
くるくる うずまきながれる くるくる ながれうずまく すいこまれ ながれこみ くるくる くるくる きえていく