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なぜ新書を読むよりXを眺めたほうが実用的なのか

私は最近新書が読めていない。もとからそこまで新書を読む人間ではなかったが、明らかに新書よりXを眺めている時間が長くなった。

というのも、新書はいらないところが多すぎるのだ。速読法をまとめた本を読んだとしよう。するとまず、速読の意義とはいかなるものか、速読法の歴史はどうなのか、速読の種類はどれほどあるのか。余計なところがたっぷり書かれたあと、ようやく具体的な速読法の章に入る。

正直言って私は速読法そのものに懐疑的なのだが、それはそれとして、新書というものは大体そんな構成になっているだろう。今回は速読を例に出しただけだ。

ともかく、私は速読する術を知りたいのであって、歴史とか種類とかはどうでもいいのだ。もっと実践的な部分を知りたい。そうすると、Xで流れてくる速読法のアフィリエイトくらいで十分になってしまう。

もちろんそんな部分は次々飛ばして、実践的なところだけ読めばいいだろう。しかしそれをすると本の半分くらいは無駄になる。本の価格に対するリターンが、明らかに減ってしまうのだ。

それに歴史を振り返りながら速読法を学ぶことが、必ずしも悪くはない。言いようのない愛着がわいたりだとか、深い理解が得られて速読がより身に付くだとか、無碍にできないメリットもあるだろう。

しかし私には時間がない。それに速読法を学ぶモチベーションは一つしかない。わずかな読書時間の有効活用だ。だのに、だらだらと歴史解説などされた日にはやっぱりXでいいやとなってしまう。

しかし太宰は言った。

学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!

太宰治『正義と微笑』

そう、学問なんて忘れてしまってもいい。その奥底に残っている砂金を大切にせよと言っているのだ。私のように、ただ実用だけを求めていたら、こんな砂金は手に入らないだろう。

それに私はこの砂金の貴さも知っている。大学院のモラトリアム時代に知ったのだ。自由奔放でいられたから、好きな勉強を好きなようにできたし、それらをすっかり忘れたあと、砂金を発見したりもできた。この貴さは体感したものにしか理解できない。私はそう思う。

だがそれにしたって時間がなさすぎる。あくせく働く社会人には、砂金など探す時間がないのだ。だからやっぱり新書は読めないし、Xから浅い知識を収集するしかないのだ。そっちのほうが即時性があり実用的だ。

それでも私は、砂金を集められたモラトリアムが懐かしい。

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