死の認識

わたしは生きていて特に夜、希死念慮におそわれる。大抵生理前、生理中、たまに生理関係なく。高校の頃、部活で一緒の嫌な男に何か悪口を面と向かって言われた時はっきりと死にたいと思った日から、わたしはこっち側に気持ちがわかる人間になった。
一度筋道の立ったこの道はもう埋め立てられることはない。こちら側に気持ちが分かるようになって、わたしは友達然り他人との溝がより一層深くなった気がする。

たまに他人と話す世間話。ねえ知ってた?2年のあの子病んでるらしいよ。腕にリスカ?の後あるんだって。
えーなんか怖いね笑
こんなカスみたいな相槌打ちたくないが変に否定もしたくない。会話は川の流れ。テンポはずっと同じ。合わせる。

わたしが持ち合わせるのは希死念慮のみなので、あいにく物理的傷をつけたり薬など飲んだりしない。だから手首を切るこの気持ちはわからない。しかし切らなきゃいけない背景に広がっている気持ち。死にたい気持ち。それだけはわかる。痛いほどわかる。わかる。わかる。

死にたいって病んでる人をバカにできる人って、両親に恵まれて、5体満足で、食べるものに困らなくて、いいね。ご両親に環境に感謝だね。
でもそれってあなたの心が強いからじゃない。あなたの心が安定していられる材料が揃っているだけ、運が良かっただけなんだよ。ガチャに当たったからって、当たらなかった子馬鹿にしてるのと同じなんだ。たまたま、たまたま恵まれた、死にたいと思わない環境にいれただけ。人はいつ病むかわからない。誰だって鬱病になれる。
わたしはそれを分かってるから、どんな境遇の人だって心を病んでたらまずは味方でいたい。
寄り添いたい。全然知らない人でも、心の片隅でわたしもだって手を握る。

人は馬鹿で浅はかだ。一度経験しないとその人の気持ちに寄り添うなんてできない。たくさん傷ついてたくさん学んでたくさん感じる人間が、最後は報われるとは限らないし、報われない方が確実に多いけど、その積み重ねてきたものは絶対厚みを増してかけがえのないものになる。その人自身に、もしかしたら他者に。
だからわたしは、死にたくても辛くてもしんどくても最初から産まれたくなかったって思って涙を流しても、それが目に見えない厚みになるって思って生きていく。諦めをつけて生きていく。その厚みはぜったいぜったい裏切らない。それは時に煌めいて時に燃えるように熱いけど、まるで命綱のような、何かになるんじゃないかな。
わたしはそう信じてる。他の人が感じてこなかったものを感じてきたわたしは確実に厚い。強い。大丈夫、負けとか勝ちとか無いから。

死にたくて苦しい日々が無意味な訳ないって熱い煌めきを育んで生きるの。

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