「ノート」と「ペン」が私にもたらした変化
現在外資系企業、IT企業を中心に企業研修講師&ビジネスコーチをしている、ファインディングライフ(株)川島雪子(かわしまゆきこ)です。
私たちが生きる外側の環境は、日々刻々と変わっております。それも想像以上に早く。自然環境の変化、国際情勢の変化、社会・経済情勢の変化、人材の質の変化、働き方の変化、教育の変化、そしてAI技術の変化・・・改めて「正解」のない世の中を1人1人が自分なりの答えを探しながら、自律的に生きていくことが求められている時代に突入したな、と感じています。特にAI技術の進化は、ここ5年で50年分位の進化を遂げるとまで言われていますし、今から25年前(私が大学を卒業した1998年)の私が今の時代を想像できていなかったのと同じく、25年どころか今は5年先の未来を描くことも難しいなぁと。
因みに先の文章の中で「自律的に生きていく」と書きましたが、「自律」をある辞書で引いてみるとこう記述されていました。
『自身の立てた規範に従って・・』『自ら普遍的道徳法則を立てて・・』、つまり、自分の内側に確固たる規範・普遍的な道徳法則を持つことが大切、ということ。
勿論、外側で起きている事実を正しく理解するための情報収集は大切なのは言うまでもないわけですが、外側の変化が激しい時代だからこそ、感情を煽るような情報に根無し草のように右往左往してあっちこち振り回されるのではなく、「私が生きるとは?」「私がこの命を使って叶えたいことは?」の本質をしっかり見つめながら、自分の内側・自分の源の部分をしっかり強化していくことがより一層大切になってきていると実感しています。
だって私たちはこの素晴らしい肉体を持った「人間」として、この世に生まれてきたのですから。数千年、万年単位でゆっくり進化しながら出来上がったこの素晴らしい肉体を持っているのですから。値段をつけられないような無限の価値を持つ肉体を持っているのですから。この人間が創り出したテクノロジー、AIに自らの内側をのっとられたりするのは、本末転倒。
自分にとっての真理、普遍的な道徳法則、規範を持てるようになるためには、論理(思考)と心理(感情)を自律的にマネジメントしながら生きていくことが大切なのですが、今日は心理(感情)のマネジメントにフォーカスを当てて、「ノートとペンが私にもたらした変化」と題して、記事を書いてみたいと思います。
(※論理的思考力を高めていくためにも、ノートとペンはめちゃくちゃ大切。それに関しては、ロジカルシンキングの研修を年間数十回させて頂いている経験をもとに、また別記事で書きたいと思います。)
自分の内側の心理(感情)をじっくり「観る」ことに慣れていなかった、子供時代
1970年代に生まれた私は、小さい頃から大人になるまでの間、どちらかというと外側からの評価や周囲からの期待に応えながら生きてきた感覚があります。特に小学生~大学生は、それなりに勉強も出来るいわゆる「良い子」だったので、「どうしたら先生から好かれるか?」「どうしたらクラスメイトと仲良く出来るか?」「どうしたら良い点数が取れるか?」「どうしたら志望校に入れるか?」「どこの学校に行ったら将来困らないか?」という『問い』に頻繁に向き合ってきていて、その結果出てきた『解』が、「良い高校に入るためには、勉強時間を確保しなければならない」で、自分が本当は続けたかったピアノを辞めてしまったり、読みたいマンガがあっても「テスト中だから我慢しよう。」と言って買うのを断念したり(※その後、「まあいっか」と言って結局買わない)、今思うと私の内側に「やりたい!」という感情が湧き上がってきた都度、「だめだめ」「今じゃない」とその芽を無意識に摘んできてきてしまっていたなぁ、と改めて感じます。
社会人になってからもしばらくは同じだった
そして社会人になった2000年手前。「どうしたらお給料の高い仕事につけるか?」「どうしたら会社で評価されるか?」、子供が産まれてからも「どうしたら〇〇のできる子供に育つか?」「どうしたらもっと▲▲になるか?」と、うーん、書きながら改めて周囲からの期待に応えようと頑張ってきた前半の人生だったなぁ、なんて感じます。誰のどんな言葉に捉われていたのか、何を信じていたのか、きっと生きる過程で関わってきた色んな人との関わりにおいて、自分で自分にそう決めて言い聞かせながら、「~すればもっと~になる」「~しなければ、~になる。」という幻を生きていたのだと思います。
その背景には色んな理由があるとは思いますし、決して過去を否定するわけではないのですが(そんな過去があったおかげで、私は「コツコツ積み上げられる」という強みを育めたし、メリットは沢山。)、自身の普遍的道徳法則や規範を持ちながら生きてきたとは言えないなぁ、改めてこの事実に気づき絶望したのはちょうど40歳頃のことです。
まあ、かつてはそれで良かった、のだと思います。私の親世代が主役だった戦争に負けた1945年頃から1980年代ぐらいまでは。「~すればもっと~になる」「~しなければ、~になる。」を信じて根性・忍耐をお守りに努力し続けていたら、それなりに豊かな生活が実現できていたから。自分の内側にあるものなんて見たら大変、それは当時「立ち止まる」ことを意味していたから。
でも今の日本は失われた30年が過ぎ、もはや世界の中では中流国の位置づけ。この現実から我々はもういよいよ目を背けてはいられない、今はまさに大きな転換期を迎えているような気がしています。この転換期の波を文字通り「自律的」に生きていくかどうか、が幸せに生きていけるかどうかの大きな分かれ道になるような気がしています。
そう、日々研修で沢山のご受講者の方々とお会いしながら、改めて自分の内側をしっかりマネジメントしていく必要性を日々感じています。
ノートとペンがもたらしてくれること
外側からの期待や評価に応え続けて頑張ってきた40歳になった頃でしょうか。「何だか思うようにいかない。」「頑張っているのに何か苦しい。」と思うような出来事が続き、出会ったのが「思っていること・感情」をノートとペンを使って文字にする、という極めてシンプルな行為でした。世の中では「ノート術」とか「手帳術」とか色んな言い方がされていますが、つまりは「外側に向いた意識を内側に向ける行為」です。
静かな時間を確保し、自分自身と対話した結果出てきた感情を、この肉体の一部である「手」を使って、ノートに思いを「文字」で綴り、明らかにこの「目」で見る、直視するということ。
最初は自分のお気に入りのアウトプットのスタイルになかなか出会えず、色々なものに手を伸ばしながらころころと手帳やダイヤリーやノートを買い替えていたのですが、試行錯誤の末、現在では自分なりにワクワク楽しく続けられるアウトプットのスタイルを見つけて、継続出来ています。
ペンを片手に、ノートに思っていることなどを書き綴っていると、いかにスマホ社会で「絵文字」「スタンプ」「スクショ」「写メ」など、我々は日々”秒”で頭で反応して行動し、ゆっくり内側にあるものに思いを巡らせながら手を使って文字を書くことを省略しているのかに気づきます。外側の評価や期待に振り回されていることにも。更にはその結果、自分の内側にある感情を明らかに見る、直視する、という機会を失いつつある、ということに気付かされます。つまりは自分の願いを自分で叶えてあげていない、ということ。
「ノート」と「ペン」が私にもたらした変化。それは、
と言えるでしょう。自分の内側・源にある揺るがないものを認めた上で外側の情報を取りに行くのと、そうではないのでは、大きな違いだなぁ、と感じます。「ありがたいな」という感謝や繋がりを原動力に行動できるのと、恐れや不安を原動力に行動する、の違いです。
一日の中でノートに向き合う時間は、私にとってとても豊かな時間。
「あー、一週間色んな豊かな経験が出来たな。」
「あー、こんな人との出会いがあったな、ありがたいな。」
「あー、これはタイミングが今ではない、ということだな。」
「あー、私はこういうことにワクワクする人間なんだな。」
皆さんは、こんな自分に優しい会話を自分に対して出来ていますか?ノートに向き合っていると、自分の内側に湧くあらゆる感情に対して「よし、よし、いいんだよ」と許容できるようになります。
自分を許容できると、他人を許容できるようになる、まさにこの順番ですよね。
だいぶ文章が長くなってしまったので、今日はここまでで。次回は内側の感情を明らかに見るようになることで、具体的などんな変化が起きるようになったのかを書いてみたいと思います。
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