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父と息子の映画・スチュワート・グレンジャーの『連発銃は知っている』と、ジェームズ・キャグニーの『追われる男』
この、どちらかというとあまり有名ではない西部劇をご存じの方は、相当のファンの方だと思います。どの映画史の本にも載っていませんし、誰も話題にしません。しかしながら私にとっては復刻した作品の中で思い出深い2本です。
しかし、ここでマニアックなお話を展開したいのではなく、この2本にまつわる「父と息子」のこと、そしてジャケットのキーアートのことについて最後に少し書いてみたいと思います。
『連発銃は知っている』は、1957年の作品で、監督は私の好きな『渡るべき多くの河』や『悪徳警官』(どちらもロバート・テイラー主演)のロイ・ローランド、主演はスチュワート・グレンジャーです。発売当時、私はこのようにDVDのあらすじを書きました。キャッチは公開当時のものです、
故郷に帰ってきた父と母を亡くした息子の葛藤と成長を描くヒューマン・タッチの西部劇
妻子を捨てて放浪の旅に出ていたトム・アーリー(スチュワート・グレンジャー)が故郷の農場に帰ってきた。しかし、時すでに遅く、妻のアリスは病気で亡くなった後だった。息子は彼に冷たかった。町の人々、とりわけ雑貨店のサムは「人殺し」「詐欺師」という噂の、アーリーの過去にこだわって、冷たい態度を取っていた。息子もその噂を耳にしていたのだ。
本当のところは決闘でやむなく殺したに過ぎないし、詐欺師というのもポーカーで勝っただけのことだった。その話に尾ひれがつき、アーリーの悪い噂となっていたのだった。そんなある日、牛商人グリムゼルがやってきて、2万頭の牛を町へ通すと言ってきた。牛が通ると土地が荒れてしまう。町民たちとグリムゼルとの間で小競り合いが起きるが、その場に居合わせたアーリーは、グリムゼルの用心棒が銃を抜いたのを見て、一瞬速く抜き撃ち倒した。
正当防衛であったにもかかわらずサムはアーリーを憎悪し、ののしった。そんなサムに嫌気が差した家政婦のジョー(ロンダ・フレミング)は、雑貨店を飛び出し、アーリーの農場で住み込みの家政婦として働くようになった。
そしてついに牧師(チル・ウイリス)が放ったララミーへの使者がグリムゼルたちに撃ち殺される事件が起こった。町民たちは銃を持ち、反撃に出ようとするが逆に罠にはまってしまう。
『渡るべき多くの河』(55)のロイ・ローランド監督が、贖罪のために真面目に生きようとする流れ者と、その息子の成長を描く西部劇。主要人物たちの緻密な描写、ドラマティックな展開、脇役に至るまで俳優たちの好演にも支えられた知られざる秀作。
やることなすこと、全部裏目に出てしまう、贖罪に生きる主人公がグレンジャーです。彼の悪い噂を耳にしつつ、母親の死に目に姿を見せなかったせいもあり、憎しみを抱えたまま多感な時期を生きている息子がいます。親の立ち場ではグレンジャーが気の毒で気の毒でなりません。その誠実な本質を見抜くヒロインがロンダ・フレミングです。彼女が観客の代わりの立ち回りをします。(グレンジャーの息子に告白されて困ってしまいますが)
この話は、実の親子なのに、まるで他人のような父と息子の関係がユニークで、私にとっては新鮮でした。私たち観客の視点ではなく、物語に生きる息子の視点は、かなり複雑な思いを持って父を見ているはずです。このミニマムな人間社会で、結構難しい演出をやっている、ロイ・ローランドという人はなかなかの職人なのではないかと思いました。
もう一方の『追われる男』。こちらは『大砂塵』の次にニコラス・レイが手掛けた西部劇で、よく『大砂塵』が赤狩りの影響下にあるといわれますが、本作も影響下にあるものの、だいぶ薄まった感じです。
飄然として西部を行く逞しき男、愛情に飢えた一輪の花、未来に希望を失った美青年、西部の詩情の中に激突する素裸の人間感情!
無実の罪で6年の刑期を終えて出所したマット・ダウ(ジェームズ・キャグニー)は、新天地を求めて西部へやって来た。マディソンの町の近くで、彼はデイヴィー(ジョン・デレク)という孤独な青年と知り合った。2人が鷹を狙って撃った銃声が、たまたま近くを通りかかった列車の機関士たちに強盗団の合図と勘違いされ、彼らはマディソンの町民と保安官たちに捕えられた。すぐに誤解は解けたが、デイヴィーは脚に重傷を負い、スウェンソンの農場で手当てを受けることになった。スウェンソンの娘ヘルガ(ヴィヴェカ・リンドフォース)とマットの手厚い看病のおかげでデイヴィーは回復、ヘルガとマットもいつしか愛しあう仲になったが、デイヴィーは脚を引きずって歩かなければならなくなった。町民たちの代表は2人に謝罪し、マットを新しい保安官として雇い入れ、デイヴィーも保安官代理となった。平和な日々が続いていたある日、銀行強盗が発生し、マットは犯人の1人モーガン(アーネスト・ボーグナイン)を捕えたが、もう1人はデイヴィーの制止を無視した町民たちによって縛り首にされてしまう。
『大砂塵』(54)のニコラス・レイ監督がジェームズ・キャグニーを主演に迎えて、開拓時代の人々の暮らしぶりと、保安官となった男の生き様を詩情豊かに描く西部劇。
本作にはかなり細かいところまでキャグニーが制作にかかわったそうですが、製作者によってそういった部分は削除されてしまい、こだわりの部分が失われた作品になってしまったと述懐しています。そのフィルムを見ることは叶いませんが、この作品は人々の暮らしぶりが丁寧に描かれているので、西部時代のライフスタイルなどにもっとユニークな描写があったのかもしれません。私自身、キャグニーは、カーク・ダグラスやトム・クルーズのように一介のスターとしてではなく、映画制作に深くかかわって、傑作を生み出すクリエイターだと思っています。なので、キャグニー版『追われる男』をぜひとも観たかったです。(が、赤狩り時代というのも関係しているかわかりませんが、ニコラス・レイにはファイナル・カット権がなかったんですね)
さて、こちらは『連発銃は知っている』と異なり、血の繋がらない、キャグニーと若者ジョン・デレクの「擬似的な父と子」の物語です。キャグニーは経験豊富で、「大人の規範」として描かれています。『連発銃』のスチュワートのように過去にトラブルに巻き込まれたことはなく、流れ者として登場はしますが、その後町の保安官役を引き受けます。危ないところを救ってやったジョン・デレクの世話を焼いてやり、保安官助手の仕事も与え、まるでわが子のように接しながら、人生の指南役となります。ところが、ジョン・デレクは自分自身をもう一人前と思っています。彼の目線では、男対男の対立を感じますが、キャグニーの目線ではまだまだ危なっかしい若造です。だんだんかみ合わなくなります。
日本の家長制における「父親」と少し異なるのは、二人に血縁がないことと、保安官そしてその助手としての、社会との関係性です。「父親」だけが社会と関係性を持っているのではなく、「子」もまた「父親」と同等の社会との関係を持っているのです。
この時代は「父と子」が良く描かれましたね。ロバート・ミッチャムの『肉体の遺産』や、ゲイリー・クーパーの『友情ある説得』もじっくりとその親子関係が描かれていました。
しかし、最近では「父親」が不在の作品が増えているのにお気づきでしょうか。精神科医でYouTubeでも活躍されている樺沢紫苑先生の著書『父滅の刃 消えた父親はどこへ アニメ・映画の心理分析』はそのあたりのことを詳しく書かれた本です。
次々と消えていく父親に一体何が起こっているのかを、父性をキーワードに、アニメや映画を題材にして解き明かしていく名著です。ぜひご一読ください。
「アニメ」と聞くとオールドファンの方は自分には関係ないか、と思われてしまうかもしれませんが、この本の中で『シェーン』の父性について検証されている章があります。それだけでも読みごたえがあります。
以下、無用のことながら。
この2本、ジャケットをご覧になってどう思われますか?『連発銃』は番宣用に撮影したと思われるグレンジャーのポーズカット一点のみ。
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これしか素材が無かったのです。タイトルのレタリングは映画雑誌で発見しましたが、他には何も見つからず仕舞いでした。
『追われる男』も、銃を構えたギャグニーのみ。背景はありません。
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ワーナー・ブラザースと違って、パラマウントは結構融通が効いたこともあり、ギャグニーの背景に西部劇らしい雰囲気のデザインを入れました。これで精一杯です。
素材が無い、制約だらけというのは本当に厳しい。ものづくりの立場にいた者として、言い訳に聞こえるかもしれませんが、本当に精一杯でした。ごめんなさい。