ヴェルサイユの焚き火―シャルル-アンリ・サンソンとジャン-ルイ・ルシャール事件
訳者による解説
本稿は『サンソン家回顧録』第3巻のジャン-ルイ・ルシャール事件に関する第8章から第11章までの全4章を抜粋して翻訳したものである。先に翻訳刊行した『サンソン家回顧録』でもジャン-ルイ・ルシャール事件について触れたが、全訳ではなく抄訳であった。したがって、今回はジャン-ルイ・ルシャール事件に関する記述を全訳することにした。なお全訳は初公開である。
VIII ヴェルサイユ、サン-ルイ広場の焚き火
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最後に刑車[罪人を鉄棒で殴打して処刑するのに用いる車輪]が適用されたのは1789年のことである。ここにその時の状況を示す。ヴェルサイユのサトリ街にマチュラン・ルシャールという蹄鉄工の親方がいた。
彼は最初から古い型の人間になるべくしてなったような男であり、古い時代の典型的な職人であり、あらゆる偏見や反感、同業組合ならではの嫌悪感、親方ならではの尊大さを身に着けていた。
自分の職業をほかのあらゆる職業よりも優れたものだと信じていたので、彼は踝まで覆っている山羊の革の厚い前掛けを行政官の法服や神父の聖衣と交換しようとしなかっただろう。鉄床で鉄をひっくり返す動作や金槌で叩いたり延ばしたり曲げたり捻ったりする確かな手付きから並ぶ者のいない優れた技量が窺われた。
彼は新しい思想を毛嫌いしていた。[有力な家門である]モンモランシー家やロアン家でさえ平等に対して彼が抱いているような強い軽蔑を抱いていなかっただろう。彼によれば、たとえロバの耳が短くなったとしても馬になることはできない。
奇矯な気風を持ちながらもマチュラン・ルシャール、近所の呼び方によればマチュラン親方は正直な男であった。彼は馬鹿正直と言えるほど正直であり、約束を違えず、情深く世話好きだった。
ルシャール夫人の忘れ形見である一人息子のことになると、彼は尊大な態度を嬉々として捨ててしまい、彼の心は優しい父親の愛情で穏やかになった。
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