何かに本気で打ち込むことの効能

 僕はお説教されるのが大嫌いだ。お説教じみたことを述べるのはもっと嫌いだ。

 だから、この記事のタイトルも正直言って好きになれない。なんだか、お説教くさい匂いがするから。

 それでも書いてみようと思うのは、受験に関する記事をいくつか書いてしまったからだ。そこで、ちょっとばっかし補足をしておかなくては無責任だと思った。

 僕の書いてきた受験に関する記事には致命的な欠陥がある。それは読んでくれた人のやる気を削いでしまいかねない、というとことだ。僕は問題集をほとんどこなさないまま良い成績を取ったし、高校三年生時の平均的な勉強時間は1日あたりせいぜい2時間弱。それでも僕は模擬試験でA判定以外取ったことがないし、そのまますんなりと受かってしまった。こういうのを読むと、嫌な気分になる人もいるだろうと思うし、やる気が削がれる人はもっと多くいるだろうと思う。

 そこで、僕はある補足、というか言い訳をしようと思う。

 僕は、確かに大学受験のための努力をあまりしてこなかったけれど、その代わり、本気で打ち込んできたことがあるんです。そして、その”本気で打ち込んでいたこと”と大学受験の親和性が偶然にも高かったので、たまたま僕は受験勉強をスキップするようにして大学に受かることができた。

 では、僕が本気でやってきたこと、そして、今も本気でやっていることについて書く。

 僕はずっと小説を書いてきた。それも、本気で書いてきた。なぜそんなことをやってきたのかについては、リアル世界の友達(開き直って一緒にyoutubeの動画を撮ってみた某S君)になぜかバレてしまった本アカウントの方にすでに書いたので割愛する。

※記事リンクを貼ることで、裏アカウントから本アカウントに一方通行の通路を設けてみる。これは、ちょっと危ないことなのだろうか?そのうち消すかもしれない。

 小説を書くという行為は、極めて巨大な情報構造体を扱う体力や技術を必要とする。それゆえに、それを極めようと日夜奮闘していた僕は、いつの間にか「東大に受かるくらい簡単」という段階に達していた。小説の一節や詩、碑文なんかまで、気に入ったものはかたっぱしから暗記していった。古文も、漢詩も暗唱した。それだけでなく、英語の小説も気に入ったもの(レイモンド・チャンドラー、J.D.サリンジャー、スコット・フィッツジェラルド、トルーマン・カポーティなどの作品)は辞書や文法書を紐解きながら原著で読んだ。好きな歌の歌詞も暗唱した。そんなことをやっていたから、僕はほとんど問題集を解くこともなく国語や英語ができるようになった。特に国語は全国模試で一番を取ったこともある。

 そして、数学と物理が天才的にできる友達からあれこれと教わって、気づけば僕は(学校のテストや授業をほとんど100%無視してきたにもかかわらず)東大くらいなら受かる、という学力に達していた。

 つまり、僕にとって学力の大部分は「いい小説を書こう」と奮闘する中で受け取った副産物だったのだ。

 ちなみに、”いい小説”はいまだに書けていない。純文学、SF、官能小説、エンターテインメントなどなど、様々なジャンルのものを書いてみたし、それらの小説で通過率5%程度の予選をクリアすることができた。それでも僕はまだ、「本当に書きたいもの」を書けていない。僕が文章の中に捉えたいと願っている”何か”は、今でも僕の指の間をするりと抜けていく。だから僕は——こんなに頑張っているのに——予選の先に進めていないし、そのことも「むべなるかな」と認めている。kindleで売ってみた小説がカスタマー・レビューで5つ星中の4.4をもらえていることはとても嬉しいけれど、僕の中で、あの小説はまだ星三つにも達しない。

 たぶん、僕は小説を書くセンスも才能もないのだろう。それなのに、どういうわけか小説にすっかりとらわれてしまっている。そのために本当にたくさんの労力を注ぎ込んできたし、友達やサークルの連中なんかとつるむ時間を失っていった。同級生が楽しそうにやっている合コンにだって、人生でいまだ一度も参戦したことがない。ディズニー・ランドやナイト・プールにもまだ一回しか行ったことがない。(要するに、リア充じみたことをほとんどやらないままの大学生活だった。そういうのにも人並みには興味があるのだが笑。なぜやらなかったのか?一人で小説を書いていたからだ。)

 それでも、僕は小説を書いてきたし、これからも書いていくつもりだ

「フランツ・カフカのように、良い作品を残しても生前には全く評価されていなかったという小説家はいる。そんな風になるとしても書くのか?」とたまに聞かれる。僕は「書く」と断言する。僕は小説を書かずにいられないのだ。もし、親切な未来人がタイムマシンか何かで未来から現れ、僕の小説が「未来永劫、誰にも読まれないから書くだけ無駄だ」と教えてくれたとしても僕は書く。少々落ち込みはするだろうけれど。

 そんな風に僕は本気で小説を書いている。ただ、あまりにも自分の夢を追うことにかまけて身を持ち崩すことだけは避けたいので、最低限の社会的役割を果たしながらコソコソと自らの即物的な欲望を犠牲にして書いている。

 小説は、僕に金銭や名誉みたいな現世御利益を一切与えてくれないのだけれど、(いや、正確に言えば、Kindleで売れた分の収益はいただいた。およそ2300円笑)僕は小説を書くことによっていくつかの興味深い副産物を受け取ってきた。その一つが「何かの手違いでまるまる1科目分の点数が吹き飛んでしまったって東大くらい受かるぜ笑」という学力だ。

 だから、僕は「何かに本気で打ち込むことの効能」を信じている。それは、直接的には何も与えてくれないかもしれないけれど、どこかで、あなたが本気になった分だけのものを与えてくれるものなんじゃないかな。そのことに気づけないまま通り過ぎてしまう人も多いのかもしれないけれど。

 つまり、僕が強調しておきたいのはこういうことだ。僕は楽をして東大に受かったわけじゃない。小説を書こうと奮闘する中でいつの間にか身につけていた副産物としての学力を用いて受かったのだ。努力せずに受かる人なんて本当に少ないんじゃないかな。

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