恋人ごっこ
以前、フォロワーさんの幾兎 遥さんに小説化していただいた記事を再掲載します。というのも、その記事は、もう一つのアカウントがリアルの友人にバレてしまった際に削除してしまったからです。
幾兎さんは私の記事をいくつも読み、DMのやり取り等をした上で、私という人間について深掘りをして小説を書き上げてくださいました。
住所不定のヒモ的な生き方をしていた大学生の春休みに、僕を泊めてくれていた年上の女性との”期限つきの恋愛とその別れ”です。最後に会ってから三年が経ったある日、彼女は生まれた子供の写真を送ってくれました。それを見ていると、何故だか涙が溢れてきたわけです。
※おそらくは私を傷つけまいという配慮からなのでしょうが、いくぶん私が美化され過ぎているような気がして、初めてプリクラを撮った時のような照れ臭さを感じながら読ませていただきました笑(ごめんなさい^^;)
〜〜〜以下、私の書いた元記事〜〜〜
住所を持たずに過ごした時期が三ヶ月ほどある。その時期は家が必要なかった。僕は民泊の運営代行の仕事をしていたので、空室があればその場所に泊まることができた。三大副都心の一等地にある部屋。月々の家賃は数十万円。必要最低限の家具や調理器具は揃っているが、生活感と呼べるものは微塵もない。
そんな風に過ごす中、僕には年上の恋人ができた。その時僕は十代の終わりで、彼女は30代の始めだった。古い友人の兄が働いている居酒屋で僕らは知り合った。カウンター席で偶然となり合わせたのだ。どちらが先に話しかけたのかまでは覚えていない。
「どこに住んでるの?」と彼女は尋ねた。
「今夜はここから歩いて三十秒のマンションに泊まります」と僕は答えた。それから店の外を指さした。僕はその日、店と向かい合わせているマンションに泊まるつもりだった。
「『今夜は』ってどういうこと?」と彼女は顔をしかめた。
「明日は別のところに泊まるということです」
彼女は首を卵一個分ほど傾けた。僕が何かを言おうとするとそれを遮り、「もしかして家出少年?」と尋ねた。僕は頷いた。
「こう見えても家出歴七年のベテランなんです」
それは嘘ではなかった。僕は中学生から寮生活をしていたし、その目的は息苦しい家庭からの脱出だった。
「私はその倍くらいになる」と彼女は言った。その話も嘘ではなかった。
僕らはすっかり出来上がり、店を出ると向かい側のマンションの部屋に行った。そしてやることをやった。彼女の左手の薬指には金属製の輪が冷たく光っていたのだが、見なかったことにした。
二回目に会った時、彼女は金属製のリングを身につけていなかった。しかし、それにも気づかないふりをした。そこにリングがあったことに気づいていたことになるからだ。二回目もやることをやった。一回目と異なり、その時はお互いに素面だった。
会う回数を重ねるごとに僕らは親密になった。僕はすっかり彼女のことを好きになってしまっていた。そうなってしまうと、彼女の気持ちをどうしても確かめたくなった。
ある日の夜、ベッドに仰向けになったまま「僕のことを好き?」と尋ねた。彼女は「おおむね」と答えた。
「僕と付き合ってくれる?」と僕は尋ねた。
「付き合う?」と彼女は驚いたように言って、ベッドから身を起こした。つるりとした肩の先にはひそめられた両眉があった。
「なんでもない。天井と喋っていたんだ」と僕は言った。
「私は何も持たない新山君が好き」と彼女はフラットな口調で言った。
「僕もね、誰のものにもならない君が好きだよ」と言った。しかし、彼女ほど平板な声を出すことはできなかった。
大学の授業が始まるタイミングで、僕は民泊運営代行の仕事をやめた。その後、二週間ほど彼女の一人暮らしの部屋に住んでいた。それなりに幸せだった気がする。少なくとも寂しくはなかった。
初めて彼女の部屋を訪れた日、そこにある様々な小道具に僕は嫉妬した。人に対して嫉妬することはなかったが、ものに対してなら嫉妬するらしい。
玄関には「お疲れ様」と刺繍されたフェルト細工のマトリョーシカが置いてあった。閉められた扉の裏には「今日もきっといい日」と書かれた木札が下がっていた。彼女はキッチンで手を洗い、電気湯沸かし器のスイッチを入れ、ベッドの上に置かれたぬいぐるみのファスナーを開いた。中からは湯たんぽが出てきた。その中にお湯を注ぎ入れ、「今夜はいらなかったかも」と呟いた。
それから彼女は余ったお湯でハイビスカスのハーブティーを入れた。ハーブティーの粉末の袋にも心温まるメッセージがプリントされていた。それらは全て寂しさを埋めるための工夫のように思えて胸が詰まった。
湯たんぽの代わりに僕が温もりを差し出したかった。ハーブティーの粉末袋の代わりに僕が温かい言葉をかけたかった。そのことを彼女に言うと、「新山君は代用品の代わりになりたいわけ?」と彼女は笑って言った。「べつにいいよ」と僕は言った。そして、せいぜい60W程度の出力にしかならない体温を彼女に差し出した。彼女は湯たんぽを手放してそれを受け取ってくれた。
「ねぇ、私、もう時期、結婚する」と彼女は僕の腕の中で言った。「知っていたよ」と僕は言った。いくぶんトゲのある口調になっていたかもしれない。僕の口はさらに動き続けた。
「僕は君の婚約者の代わりにぬくもりを提供する湯たんぽの、さらに代わりだ。実に光栄なことだと思うよ」
彼女はその皮肉を流し、間を置いてから「再来週にはここを引き払う」と言い足した。僕は何も言えなかった。
「私は、やっぱり、ひどいことをしている」としばらくしてから彼女は言った。
「そんなことないよ」と僕は言った。
「愛が無ければ全てはごっこ遊びなんだ。ごっこ遊びに善も悪もない」
彼女は僕の腕の中で小刻みに震えて笑ったのだが、あまり楽しそうではなかった。
「新山君てさ、時々クサいセリフを大真面目に言う」
「僕はこの病気をある友人にうつされたんだ」
「いつかその友人にも会ってみたいな。いったいどんな話をするのか聞いてみたい」
「タイミングが合えばね」
僕はそのように言ったのだが、彼はもうこの世にいなかった。彼にはビルの屋上から地面を覗き込む悪い癖があった。ある日、彼はそこから落ちて死んだ。
それから二週間ほどの間、僕たちは恋人ごっこを楽しんで過ごした。彼女が仕事に出ていくのを見送り、しばらくしてから僕も大学へ通った。大学が終わると、なるべく早く彼女の家に帰った。大抵の場合は僕の方が先に帰り着いていた。一緒に料理も作ったし、家事もこなした。引越しの準備すらも手伝った。あっという間に時間は過ぎた。
最後の日の夜、彼女はベッドの中で不思議なことを言った。
「ねぇ、覚えていて欲しいことがある」
「恋人ごっこの台本なら、おおよそ頭に入っているよ。明日の分までね」
「そうじゃなくて」
彼女は僕の肩を引いて自身と向かい合わせた。そして、薄暗い部屋の中、僕の両目をじっと覗き込んだ。
「ここにはちゃんと、何かがあったの」と彼女は言った。それから僕の手を引き、彼女の胸に触れさせた。
「ここは、今はもう、空っぽかもしれない。でもね、かつては、たしかに、何かがつまっていた。信じてくれる?」
指先が冷え切っていたせいなのかもしれないが、彼女の裸の胸はとても熱かった。その場所は一定のリズムを刻んでいた。刻み目の一つ一つを愛しく感じた。
「信じるよ」と僕は言った。「そこには何かがあった」
「覚えていてね」と彼女は言った。僕は何も言わずに頷いた。
先日、三年ぶりに彼女から連絡があった。その時、僕の家出歴は十年になっていた。心当たりのない名前からの連絡だったが、それは彼女の苗字が変わったためだった。
そこには苦しんでいるのか喜んでいるのか見分けがつかない赤ん坊の写真があり、<子供が生まれた>とひとこと添えてあった。その写真を見ていると、涙が出てきた。
君の胸は空っぽなんかじゃなかった、と僕は強く思った。軽くなったり、重くなったりすることはあるかもしれない。でも、空っぽになったことは一度もない。これからもない。——涙が止まると、僕はそんな感じのメッセージを送った。
しばらくして、<新山君との恋人ごっこ、楽しかった。ありがとう。忘れない>というメッセージが届いた。お辞儀をする不思議な生物のスタンプが添えてあった。
僕は<家族ごっこを>と打ち、全ての文字を消した。<また家出したくなったら>と打ち、やっぱりそれも消した。
それから<お幸せに>と打ち直して送信した。その後、彼女の連絡先を消した。それ以外に僕に何ができただろう?