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 最近は、死のことをよく考える。それは僕の心が妙な傾き方をしているせいなのだが、死に近づくことは決して悪いことばかりではない。

 死に近づいていくと、死者と話すことができるような気がしてくる。生死を隔てるうっすらとしたベールの向こう側に何かを叫べば、死者たちに届くのではないか、彼らの声を聞くこともできるのではないか。そんな気分になる。

 屋上から落ちて死んだ友達。僕は何度も彼のことを考える。そして、昔、僕のことを好きになってくれた女の子。彼女は母親の無理心中の道連れで死んだ。僕らは仲違いをしたままだった。僕は、短めに切り揃えられた君の髪型をからかった。君は真剣に腹を立てた。それが、僕らの最後のやりとりだったと記憶している。

 僕は君らのことを小説に書いた。物語にした。事実そのままを並べたわけではないけれど、脚色された似顔絵がより本人の特徴を際立たせるように、僕の書いた物語もまた、あの頃の僕らのあり様を描き出したつもりだった。

 しかし、その結果、自分でもがっかりするほど凡庸な”お涙頂戴もの”の小説が出来上がってしまった。僕はそれに耐えられず、何度も書き直し……そして今も書き直している。

 僕の作品が凡庸なのは、僕の書き手としての力が凡庸で、そして君らの死ですらも——表面だけを見れば——ありきたりなものだからなのかもしれない。どこかの病みがちな男の子が飛び降り自殺をした。栄養失調気味の痩せ細った女の子が母親の無理心中の道連れで死んだ。ありきたりの話だ。

 でも、その内側にいた僕らにとっては、それは、「よくあること」という言葉だけではとても切り捨てることができない何かだった。だから、僕は今でもその出来事を小説に書こうと躍起になっている。そんなふうにして、僕の一生はありきたりな終わり方をするのかもしれないけれど。

 まだ君らが生きていた頃、僕らの間には、何か素敵なものがあったはずなのだ。そのくすんだ、微かな光を僕はすくいとって、物語という器に封じ込めておきたいと願っている。あの日、君たちは生きていた。確かに、君たちは生きていた。

 僕はもう一度君らに会いたい。そういえば、もうすぐお盆なのか。

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