それを正しいと信じきれなかった。
塾講師をしていた頃の反省を書く。
僕は三年ほど塾講師のアルバイトをしていた。そして、その三年間、ずっと、ある一つの信条を肌身離さず持ち続けていた。それは、
「決して生徒に命令をしないこと」
だった。
宿題や、試験勉強はあくまで「提案」という形をとっていた。「こういうことをやった方がいいと思うよ」と。
その在り方を僕は貫き通した。それは一重に、自分自身の個人的な体験に根差すものだった。その意味で、僕のことを独善的だと批判する人もいた。ある意味、「厳しすぎる」と。たしかに、その批判はもっともだったので僕は原則として高校生以上の生徒を教えることにしていた。もしかしたら、小学生くらいまでは勉強を「強いる」ことが必要になるかもしれないと思ったからだ。中学生は人によりけり。実にざっくりとした乱暴なくくりだけれど。
僕の過去の経験について書く。
それは、勉強を強いられることが本当に嫌だったという経験、そして、あくまで「面白いから学問をやる」というスタンスを取った途端に東大くらいなら簡単に受かるという水準の学力に達していたという二つの経験から来ている。
運のいいことに、僕には一人の友達がいた。彼は、数学や物理学に関しては間違いなく天才的だったと思う。彼と話すうちに、僕はそれらの科目において理解すべき極意を習得していたように思う。彼がもうこの世にいないことが本当に悔やまれる。
そんなふうにして学力を身につけていった僕が受験生時代にやったことは、せいぜい、いつの間にか身についていた学力を、受験問題に合わせてチューニングする(要するに、模擬試験を受ける)程度のものだった。問題集なんて一冊も解き終わっていないし、過去問題もせいぜい三年分くらいしか解いてない。一般的な東大受験生はいろんな出版社が出している「優れた問題集」とやらを何冊も、何周にも渡って解き、十年分以上の過去問題を解いたりもするらしいけれど。
僕の頭が特別よかった、と思ったことはない。自分の内部から湧き上がってくる好奇心によって学ぶことを忘れていた時期——それは中学二年生から三年生のあたりだ——は、普通の中学生の何倍もの努力をしたし、その割に大していい成績を取ることはできなかった。僕の頭の出来はその程度のものなのだろう。
そういう経験があったから、僕はあくまで内側から湧き上がる好奇心によって学ぶことを生徒に教えたかった。しかし、それはある種の矛盾を孕んだ試みでもあった。僕、という塾講師に勧められてやっている以上、それは内側から湧き上がってきたものではない、、、
馬鹿げたジレンマだと思われるかもしれないけれど、これは、少なくとも僕にとってはとても重要なポイントだった。
そこで、僕はかつて、僕の友達が僕にしてくれたこと——つまり、目の前で、とても楽しそうに学問を語る——ということをやろうとした。それは、ある特定の生徒に対してはとてもうまくいった。彼らの成績は上がったし、何より楽しそうに学んでくれるようになった。
一方、そうでない生徒に対しては、ほとんど成果を上げられなかった。もしかしたら、僕は彼らに対してはあくまで「〇〇という問題集を△ページやりなさい」というような命令・指示をした方が良かったのかもしれない。彼らの主体性をあてにすべきではなかったのかもしれない。
それでも僕は、自分の信条を掲げ続けることにした。僕はせいぜい、一介のアルバイトに過ぎなかったし、アルバイトである以上、背負える責任は時給の分だけなのだ。影響力だって小さい。せめて、自分の正しいと信じることをしよう、と。
それだけでなく、ある計算高い側面もあった。
「週に2回、一コマずつの授業をしたところで、せいぜい、時間にすれば二時間程度だ。であれば、その授業の間に何かを教えるよりは、塾にいない間の学習の効率を高くした方がいいだろう。そのために、授業において最優先ですべきは、生徒たちの好奇心を高めることなのだ。」
そうして三年間、僕は一度として生徒に指示や命令をしなかった。命令や指示は(ひねくれた主体性を生むことはあったとしても)基本的には主体性を削り取る行為だし、好奇心は結局のところ、主体性に根差すものだと考えていたからだ。
「誰それに勝ちたいとか、〇〇に受かりたいとか、あるいは『分かる喜び』ですらも関係なく、ただ、やっている状態が喜びであればいい。それこそが、学問をやる動機づけだ」
そうした偏った信条を僕は掲げ続けることに決めた。一人くらいは、こういう変な塾講師がいてもいいだろうと思ったからだ。
それでも、やはり、それが本当に正しかったのかは分からない。もしかしたら、誰かの指示や、命令の中にいる方が幸せになる人もいるのかもしれない。(もしかしたら、そういう人の方が多いのかもしれない)
そうした不安が拭えないから、僕は今、こうして文章を書いている。外の世界に文章をこうして書く、ということは、誰かに同意を求めずにはいられないという弱さがあるからだ。
「僕はこういうことをしてきた。それで正しかったのだろうか?」
僕は誰かに「私もそれでいいと思う」と背中を押されたいのだ。それは、僕が自分のやってきたことを「正しい」と信じ切ることができないからだ。実に情けないけれど、それが、僕の正直な気持ちだ。
僕のやってきたこと。本当に、それで良かったのだろうか?