文学
これはまだ、僕の中ですら整理のついていない、ただのつぶやきなのだけれど、
最近、よく、文学の役割について考える。
”文学”とは何か、という定義から始めないといけないってのが、理系の学生にありがちな思考の癖だけれど、今回は整理せずに書いてみることが目的なのでそれもやらない。
文学・ぶんがく・ブンガク
人によってそれぞれ、ぼんやりとしたイメージが湧くのではないかと思う。ここでは、それが文学の定義です。
では、今、この瞬間、僕の頭に思い浮かんでいる文学の役割について書いてみようと思う。学術的な権威も、普遍性も、再現性も、あるいは反証可能性もない。なら正直さはあるのか?——もう少しあとで書くけれど、それすらも無いんじゃないかという気がする。
文学作品は、面白くない。文章が読みづらいこともある。どうやら作者は何かを意図しているらしいけれど、それが空回りしているように(少なくとも、読み手には)感じられることがある。残念ながら、いかなる芸術作品も、作り手と受け手の合作であるという側面があるから、作者がどんなに頑張っても、それだけでは完結しない。
たぶん、文学は受け手の側にも結構な想像力を要求するし、それがなければ、永遠に観賞という行為が完結することはない。
そんな文学に、それでもなけなしの時間や、想像力や、お金をはたいてどっぷりと浸かってしまった人間が少なからずいる。その一人が僕なのだけれど、自分の同類を見かけるたびに、ぼんやりと、我々の共通点が浮かび上がってくる気がする。
みんな、各々に不可解な呪いを抱えていた。それは、傍目にはまったく不合理に見えることもある。どうしてそんなことで苦しまなくてはならないのだろう?というような、首をひねりたくなる十字架。
そういうものを背負っている人がいる。一番多いのは家族関係かもしれない。その呪いは、たぶん、一生解けないんだろうと思う。ちょっと軽くなることがあるだけで。
そういう内面的な呪いを軽くするためには、内面へと入っていかないといけない。そういうことは、自然科学には難しいことなのではないかと思う。どうしてもそれは、対象を切り離して(分離して)客観的に見て統御しようとするものだから。そういうのに抵抗してしまうのが、人の心のありようだと僕は思う。
僕がちっとも面白くないヘルマン・ヘッセやゲーテ、あるいはドストエフスキー、トルーマン・カポーティ、ガルシア・マルケスでもいい、、、を貪るように読んでいたのは、なぜだろう?
ずっと、強い飢えのようなものがあったからだろうと思う。その飢えは、エンターテインメント系の小説ではなかなか癒されなかった。宮部みゆきも、東野圭吾も、海堂尊も、、、(全部、友達に「面白いから読みな!」と言われて読んだ。面白かったけれど、面白いだけだった)
そうして考えてみると、文学の役割は、内面にある不可解な呪いに名前をつけ、輪郭を与え、あわよくば分離・隔離し、軽くする、というものなんじゃないかと思う。
僕にとっての文学は、そんな役割を果たしてくれている気がするけれど、
これはもしかしたら、単に僕が「文学にだって役割はある!」と思い込みたいが故のごまかしで、僕よりも文学のことをよくわかっている人が読んだら、鼻で笑ってしまうような思いつきに過ぎないのかもしれない。