僕も自分の人生を生きなきゃいけないんだけれど……
「そのかわいい笑顔で、私に取り入ろうとしているわけでしょう?」とその人は言った。
「それ、けっこううまくいってるよ。もっと頑張って」
そんなことを言われても笑顔を維持できるほど、僕のハートは頑丈ではなかった。僕の”かわいい笑顔”とやらはすぐに唇の縁からこぼれ落ちて、地面にあたって飴細工のように砕けた。
その人は僕の2.5倍くらいの年齢だったけれど、僕は彼女のことをとことん好きになってしまった。その結果、すっかり彼女に振り回された挙句、教えられていた名前すらも嘘であったことを知って恋は終わった。後には敗戦処理の課題が山積みだった。どうして僕はそんなことになってしまったのだろう?(このことを思い出すと、今でも苦しい)
理由は痛々しいほど単純だった。彼女は、僕の持っていないもの——実存に裏打ちされた知恵——を持っていたのだ。
僕は頭でっかちの東大生の例に漏れず、経験に裏打ちされていない薄っぺらい知識ばかりで頭が土塊(つちくれ)のようになっている。そんな中、強烈な人生を生きてきた年上の女性に触れると、もう、すっかり痺れ切ってしまって現実的な感覚が麻痺してしまう。相手の話にうっとりと聞き入ってしまうわけだ。(その結果、僕は夫のいる彼女にぞっこんになり……以下略)
そんな自分の心根に、すごく卑しいものを最近は強く感じる。僕は自分の中身が空っぽであることには気付いている。その認識に至っていること自体は悪いことではないと思う。ただ、その空っぽさを、僕は安直な方法で埋め合わせようとしていたのだろうと思う。つまり、自分の人生を生きるのではなく、中身の詰まった人生を生きてきた人の恋人になることで、間接的にそれを手に入れよう、というさもしい在り方だ。そのために僕は手痛い目に合う羽目になったのだろうと思う。
今でも僕は、中身のある人生を送ってきた人に弱い。苦しみを抱えながらも、自分を失わずにじっと耐え、暗闇を抜け出した人が、どうしようもなく好きだ。その実存によって支えられた言葉が、仕草が、醸し出す空気が、あらゆる理屈や常識を越えて好きだ。あまりにも好きだから、僕はやっぱり、”恋は盲目”の典型的なパターンに陥る。「おいおい笑」とため息をつきたくなるほど、その人のことしか考えられなくなる。年齢?外見?そんな表面的な属性はすっかり「どうでもいい」ものになる。
恋をしてみると、形に好みなどないことがわかる。好きになると、その形に心が食い込む。そういうことだ。オレのファンタジーにぴったりな形がある訳ではない。そこにある形に、オレの心が食い込むのだ
(山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』)」
感極まって、思わず年上女性を愛する男子大学生を主人公にした小説の一節を引用してしまった笑
(驚くべきことに、僕のおかしな衝動は性別の壁ですらも超えてしまう。僕はバイセクシャルなのかどうかよく分からないけれど、僕のことを好きになってくれた年上のゲイの人の熱烈さにクラッときて、「あ、自分、男でもイケるんだ笑」と感心した。ちなみに、ノンケの男の人を好きになったことは一度もない)
とまぁ、自分の馬鹿さ加減を見つめた後で、「どうすればいいか?」を考える。それでこそ、ちゃんとした敗戦処理じゃないか^^;
どうすればいいか——当たり前だけれど、僕自身もまた中身のある人生を送るべきなのだ。楽な方に流されるうちに、いつの間にか自分を失うようなことがないように気をつけないといけない。特に気をつけるべきは「楽」だ。僕が楽をしているということは、その分、誰かが苦しんでいるということだろう、と不安になれる人間でありたい。(口では何とでも言えるのでここでは偉そうなことを書いて、あとで恥ずかしがることにします。もちろんこれは僕の一番の特技です)
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書いてもいいものかどうか迷ったけれど、最後に、過去の恋愛の敗戦処理について、今さら書く気になったきっかけについて触れておこうと思う。
それは、割と最近にフォロワーさんになってくださった小杖野和香さんの記事だった。旅の回顧録やエッセイを読むうちに、僕ははっきりと危険信号を察知した。
「あ、この人、僕が(とち狂ったように)好きになってしまうタイプの人だ笑」
そう思ったところで、慌ててジプシーたちのフラメンコに関する記事や、家賃についての記事を読むのを中断した。
ごめんなさい、このパラグラフにオチはありません……