王様の耳はロバの耳(に出てくる穴)

 どうしても、自分の内部に留めきれない話があるので、今夜はそのことについて書く。眠れない夜が久しぶりに訪れたので。

 僕はドロドロの恋愛をいくつかしてきたわけだけれど、その中で最もドロドロだったものについて書く。誰にも話したことはないし、書くのも初めてだ。誰にも理解できない種類のドロドロなんじゃないかと思う。

 相手はいわゆるメンヘラだった。メンヘラにもいろいろな種類があるけれど、僕が出会い、関わってきた中では、彼女のタイプのメンヘラが最も厄介だった。
 「怒る」とか、「やたらめったら束縛する」とか、あるいは「包丁を突きつける」というタイプのメンヘラでさえ、彼女のものと比べれば、そんなには怖くないものに思えた。こういうタイプのメンヘラは、とりあえず、エネルギーは持っている。そのエネルギーが、おかしな流れ方をしているというだけ。

 僕が出会ってきた中で、最も厄介なタイプのメンヘラだった彼女は、ただ、エネルギーがなかった。

 夜、一緒に寝て、朝を迎える。「朝だね、起きようか」と僕は言う。彼女は「起きたくない」と言う。
 しばらく経ってから、僕は「お腹が空いてきたね」と言う。彼女はベッドに仰向けになったまま、ぽかんと口を開け、「お腹すいた」と言う。
「何か食べようか」
「食べたくない」
 それからしばらく時が過ぎる。「外、行こっか」と僕は試しに言ってみるのだけれど、彼女は「行きたくない」と言う。

 その無気力さは、やがて僕に伝染してきて、僕もまた、すっかり「何もしたくなく」なっている。そんなふうに過ごして、気がつけば新しい夜が訪れる。

 実は、僕と彼女との付き合いは、とても長い。小学生の頃からの付き合いである。

 彼女は、父に暴力をふるわれて怪我をしていた。僕は僕で、違った理由で怪我をしていたわけだけれど、そんなわけで、僕らは一緒に並んで体育を見学することが多かった。

 何度か、彼女と一緒に家出しよっか、という話をした。二人で力を合わせて働けば、なんとか、親元を離れて生きていくことができるんじゃないか。
 その妄想を、僕らは無邪気に楽しんでいた。そうやって、現実から一緒になって逃げていた。

 やがて、僕は本当に「家出」を実行する方法を思いついて、実行に移した。そうして親元を離れて一年がすぎたある日、彼女から手紙が届いた。そこには僕のことを好きだ、と書かれていた。

 驚くべきことに、僕はその瞬間まで彼女のことをすっかり忘れてしまっていた。記憶が蘇り、僕は強い罪悪感に苛まれた。僕は、自分の身に降りかかった出来事に対処するので精一杯で、彼女のことをすっかり、地元に置き去りにしてきてしまっていた。そして、そのことすらも忘れてしまっていた。

 僕は、彼女を地元に見捨ててきた上に、そのこと自体も忘却していた。

 そのことに思い至った時、僕はその場に崩れそうになりながら、リネン室の木棚の支柱に寄りかかっていた。


 やがて、僕は彼女と付き合い始めた。

 記憶にあるかぎり、彼女だけが、そのころの僕に必要な温もりを与えてくれた。彼女は僕よりも背が高かった。ある日、彼女は僕に「抱きしめさせて」と言った。僕が頷くと、彼女は僕の背中に手を回して、僕を抱いた。

 何かがこみ上げてきて、彼女にしがみつくようにして泣いた。彼女も泣いていた。彼女は僕に飢餓感を与えてくれた。僕が、実は愛情に飢えていたのだということを思い出させてくれた。もし、その時、彼女が僕を抱きしめてくれていなかったなら、僕はたぶん、自分に何が欠けているのか分からないまま、ただ、干からびたように生きて、一人で死んでいったのだろうと思う。

 □

 僕をフったあと、彼女は年上のくだらない男たちと付き合い始めた。実にくだらない相手ばかりだったので、彼女は当然のことながら傷つき、病んでいった。病んだ時にだけ、僕に連絡してくれた。

 僕は彼女がどうして病むのかがよく分かった。というより、僕は、彼女が病み始めたきっかけを与えてしまった側の人間だった。あの時、僕は彼女を地元に残して逃げてしまった。そのこと自体も忘れ去ろうとしていた。そのことを僕はずっと後悔している。僕は、君の意思を尊重すべきだった。君が何を感じ、どのような思いで僕に心を開いていてくれていたのかを、重く受け止めるべきだった。それでも彼女は、そのことについて、僕をとがめたことは一度もない。


 彼女を地元に見捨ててきたことを後悔しながら、何度か彼女と寝た。ある夜、彼女は僕に「殺して欲しい」と言った。「首を締めて」
 その「殺してほしい」は、本物の声だった。冗談でもなく、「私病んでます」アピールでもなく、勘違いでもなく、ただ、「殺してほしい」と言っていた。その時、彼女は僕のことを好きではなかったはずなのに、このような嘘をつきさえした。

「首を締められて死ぬと、最後まで、好きな人の顔が目の前にあるでしょう?だから、幸せ」

 彼女は明らかに、僕を操ろうとしていた。僕が、「あなたのことが好きだ」と言われたくて汲々としていることを見越していた。もしかしたら、僕が抱えている罪悪感のことまで見抜いていたのかもしれない。

 それでも、僕らは結局、この歳になるまで生き抜いた。僕には今、君ではない恋人がいるし、君もまた、別の恋人がいる。

 僕らはもう、別れるべきなのだろうと思う。僕らはこれから、別々の人生を歩んで、それなりに苦しみ、喜び、やがて死ぬ。

 もう、僕らの人生は交わらないだろうし、そうであるべきだ。この別れは、僕にとって、自分自身の死と同じくらいに痛みを伴うものでもあるのだけれど、僕らの関係は—―あの、昔から続く歪な慰みあいの関係は—―そろそろ永久的に終わるべき時なのだ。

 僕は、いまだに君への罪悪感を引きずっているし、君から連絡がくると、何をおいても君のところに行かなくちゃいけないような気がする。あの時、君が与えてくれた温もりは、本当に大切なものだった。

 でも、僕は今、君とは違う恋人がいるし、自分の気持ちを、彼女のためにとっておかないといけない。
 君も、数々の失敗を経て、今はそれほど悪くない彼氏とくっついている。君が、昔の傷を、その恋人に明かせないということは、よくわかる。僕も同じだからだ。でも、僕らはもう、これらの過去に蓋をして生きても大丈夫になってきたんじゃないかと思う。

 今度こそ、僕は君と別れる。

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