母と地面(情けない男シリーズ1)

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 今日(2021/11/23)は文化の日で、休日だったので図書館に行って来た。併設された公園は、幸せそうな家族でごった返していたので——僕は、まぁ、暗い気持ちになったわけだ。

 ”家族”というのは、僕にとってはある種の地雷で、ふとした不意打ちを食らったりすると(そう、例えば今日)、すっかり僕の「情けない男スイッチ」が入ってしまう。そして、すっかりウジウジした人間になってしまうわけだ。

 あまりにも情けない気持ちなので、それをどこかに放つべく、この記事を書くことにした。言ってみれば、この場所を”王様の耳はロバの耳”に出てくる穴みたいな用途に使わせていただこうというわけです。

 これまで付き合ってきた何人かの女性に指摘されたことだけれど、僕はやっぱり、母親を求めるように、彼女たちに接していたのだろうと思う。そのことは、もう、いいかげん、認めないといけない。

 そして、そんなものはもう、得られないのだと肝に銘じないといけない。

 ここからいきなり話が飛ぶけれど、僕の母は「地面」だ。そのことについて書く。

 明るく、暖かで、うまく行っている家庭を見ると、そこには確かに、愛情らしき温もりを感じる。どんなに傷ついて、ぼろぼろになっても、”帰ることのできるホーム”を、その人たちは持っている。

 僕にはそういうものが与えられた記憶がない。でも、そういうものがどうしても欲しくて、欲しくて、欲しくて、僕はやはり、恋人に母のような像を、無理にでも見出そうとしたのだろうと思う。(迷惑をかけてごめんなさい)

 一方で、婚活パーティーの運営スタッフのアルバイトをしたことがある僕は、そういう、「ありのままの自分を受け入れてくれる母」を、いい歳こいて求めている男が、いかに情けないのかを痛いほど知っている。タンクトップに短パンで会場に現れた髭ズラの29歳の男。おい、ここは婚活パーティーの晴れ舞台やぞ、もっとマシな格好をせんかい、と僕は心の中で彼に呟いていたのだが、まぁ、彼こそが僕の鏡像だったというわけだ。(泣きたい。あ、涙出てきた。)

 僕は小さい頃から、そうやって母を求め続けてきた。深夜に家を抜け出して徘徊し、首吊り山に入っていった小六の夜。僕は、そこで初めて母に出会った。

 株式会社〇〇さんの看板の隙間から、僕は夜の木立の中に入っていった。そして、お気に入りのケヤキ(結構な樹齢だろう)の根元に腰掛けた。季節は冬で、南国といえども空気は凍てついていた。風はほとんどなかったが、頭上では細長い枝がゆったりと揺れ動いていた。薄く引き延ばされた白々しい光に照らされて、銀と紫檀が交互に入れ替わった。

 ケヤキの幹を背に足を抱え、ひたすらボーッとしていると、ある考えが脈絡もなく湧いた。

「成績が悪くても、かけっこが遅くても、ピアノの演奏が下手でも、『地面』は僕を見捨てずに着いていてくれる。だから、地面こそが僕の本当の母じゃないか」

 僕はそんなことを真面目に思っていた。

 湿った柔らかい土。いろいろな生き物の死骸が腐って形を失い、土粒子に混じって降り積もっている。僕はそこに仰向けに寝転がり、ケヤキの枝の間に見える夜空を、その隙間から覗く星のまたたきを見つめた。

——死の時には私の仰向かんことを!
——この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!
——それよ、私は、私が感じ得なかったことのために
——罰されて死は来たるものと思うゆえ

 とまぁ、中原中也の詩の一節を口ずさんで、指先をそっと、ふわりとした土の中に潜り込ませた。その場所は、じんわりと僕を温めてくれた。

 地面は、死の時までずっと僕を見捨てずに、着いていてくれるだろう、と思った。

 僕の背中は不思議な温もりに包まれていた。それは、自分よりも大きな何かにつながることでしか得られない安心感のようなもので、あぁ、きっと、これがいわゆる「母のぬくもり」なのだろうか、と思った。

(もし地面から見捨てられたら、その時はもう、空中浮遊をウリにして新興宗教の開祖になるからいいもんね)


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