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不幸の楽しみ方

 時に天地は万物盈満、されど我が心は地に伏して枯れ枯れなり。心おさまる寄辺や閨は何処にもあらじ。さすらふ人生にて、嗚呼、哀哉。

 五月。新緑が眩しい。
 案の定、五月病を患い、やる気がなくなっているところに、衝動による急な出費で貯金も僅かしか残っておらず、食費が一週間で千円という落ちに堕ちた生活を送っている今日この頃。最早「清貧」と言う言葉を以てして生活をしなければ精神が保てなくなった。それかいっそ笑い話でもしてくれたら気持ちは幾分か晴れるだろう。食事も一日一食に変わり、脚が震えるようになった。栄養不足だろうか。
 ただ私はこれを、今月を乗り切るしかない。それしか道は無いのだから、頑張るしかないのだ。一日一食、電気やガス、水道をできる限り使わない、スマホの充電は一日一回(それで足りる)、日が沈めば眠りにつき、日が登れば目を覚ます、明るいうちに本を読む、するべきことを済ましておく、等々。これだけで見れば苦しい生活だろう。しかし、私はその苦しい生活からどうやって楽しみを生み出すのかを日々研究している。辛いと不幸は同じでは無く、楽しいと幸福が同じでは無いと『オーベルマン』に書かれていた。つまり、私が目指すところは「不幸でいても楽しい」である。
 私は非日常が好きだ。私にとってお金がギリギリ足りるかどうかの綱渡りの状況がとても楽しい。ピンチの時こそ頭が働くもので、あれをこうして、これをああしてとよく働くようになる。五月病を患いながらも、生きようとする、この危機的状況を楽しんでいるのだ。緻密な計算をした上でギリギリお金が足りることを知った時は、手の舞い足の踏む所を知らずな気持ちであった。食費は大丈夫だ。一日一食でも問題ない。「寝るは食す」と『三銃士』に書かれていたはず。お腹がすいたら眠ればいいのだから。
 お金は何とかなった。あとは気の持ちようだけとなる。だがここにちょっとした厄介事が出来る。今、何としても、本が欲しい! と思ってしまうのだ。欲しい本、それはアイルランド語の勉強に使うテキストのことである。四千円弱する。しかしあと一ヶ月待たないとお金に余裕が出てこない。否、一ヶ月経ったからといってお金の余裕はしばらくは出てこない。計算上ではの話である。そんな本が欲しい私に今出来ることといったら、別の本を読む、積読を解消する、このぐらいである。特に、アイルランド語の勉強に役立ちそうなアイルランド人の書いたエッセイの群れを読んでいくのが良いだろう。七冊はある、頑張りたまえよ。
食事についての記載を忘れていた。食事は仕事場の給食で栄養補給をしようと考えている。最近、運良く作りすぎた料理を分けてもらうことが多いために、食事に関してはあまり悩んではいないのだ。さらにこういう時は脛をかじるぞと言わんばかりに、親の家に寄ってはご馳走を食べることもある。それがなくとも最近、食事を取るのが億劫になってきたために食べる量が多少減っても問題は無いのである。日々の糧が与えられることの素晴らしきかな。ちなみに私も料理はする。フライパンにコップ一杯の水を入れて、切った野菜をその中に入れて蓋をして蒸す。これだけである。たまに牛乳一杯だけで一食を済ますこともあるが。
 お金が無い私には借金があり、それも返さなければならない。これに関してはどうにかやりくりしながらでなければ返せない。これは超難関の「今月を生き延びる」という試練よりもさらに難しいものだ。今月返せなかった分は来月に持ち越される、それは当たり前のごとく。つまりはおよそ二倍になって借金がやってくるのだ。あじゃぱー。今月を生き延びても来月も苦しまなければならない。金額や払い方によっては再来月も。それに加え友達との約束が来月に…買いたいものの貯金が進まず…といった具合である。こればかりは優先順位を決めたり、今必要かどうかの識別をしてお金の使い所を決めなければならない。一難去ってまた一難。ここをどうにか出来ればあとは楽なものであるが、一気に減ったお金は一気に戻ることは無い。徐々に戻ってくるものなのだ。安心した生活に戻るまでには半年はかかるだろうと予測する。
 今日は五月十一日。六月まであと二十日ほどあるが、その間は「不幸を楽しむ」ことにしよう。読者にはどうか、衝動買いの末に食費や生活費に困る事のないようにと祈りつつ、私は眠れぬ布団に就こうと思う。みなさん、いい夢を。

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