今年の秋は

 仲秋ちゅうしゅう雷乃収声かみなりすなわちこえをおさむを迎えた頃、初老の男は独り秋を楽しんでいた。彼岸花が並ぶ畦道あぜみちに立ち、黄金色こがねいろに輝く田園を穏やかな気持ちで眺めていた。今年は雷が、まるで雷神が祭の指揮でもしているかのように、雨空の中にいくつもの太鼓を轟かせていた。それ故か、今年は豊作だ。
 近くに葦原あしはらは無いが、瑞穂みずほとはこういったものを言うのかしらんと、稲穂の原に風がそよぎ、次から次へとゆるやかな波を立てているのを見て、その美しさに酔いしれていた。
 初老の男をここで紹介する。この男は、一に自然を愛していた。山奥に小さないおりを結び、山を拓きそこで畑を耕したり、季節に合わせて野いちごや栗、柿などを採って暮らしていた。彼は自然に対して時に敬い、時に友として親しみ、一日のほとんどを庵の外に出て過ごしていた。彼は隠遁思想いんとんしそうを好んでいる訳では無い。彼は「ある不思議な河の流れ」に身を委ねていたら、いつの間にか「ここ」にたどり着いていた。彼は今の暮らしについて、故人の言葉を借りてこう言った。

身を託するにすでに所を得たり
千載せんざい 相違あいたがわざらん

 田園の様子を見終えた彼は、彼岸花たちがさようならとたくさんの紅い手を振る中、畦道を辿って帰路に着いた。今日のご飯は、今朝友人から貰った山女魚やまめしょくす。

 蟄虫坏戸むしかくれてとをふさぐ穴惑あなまどいが少し寒そうにしてみちを行く。蝶は涼風すずかぜまとい、より日のあたる空へと舞い上がる。夜に合唱する虫たちは、草むらへ飛び込んでその身を隠す。草陰から鳴る度に空気中への密度を増す落ち着いた音色たちは、秋真っ盛りの今を表すかのような自然のオーケストラであろうか。
 初老の男はまたもや独りで秋を楽しんでいた。晴れ渡る青空の端に、いわしの群れが泳いでいるのが見える。今日は何をして楽しもうか。そう考えながら歩き、立ち止まった場所はまたもや田園であった。風がよく吹き抜ける場所を本能的に求めているのか。たぶん、そうではなく、彼は田園を見るのが好きなだけであろう。
 しかし、今日は特別の風が吹いた。彼の元へと届いた風は甘い香りを纏っていた。木犀もくせい。その芳香ほうこうがどこからか漂って来た。彼は木犀の香りに出会えたことを心の底から感謝した。彼は、自然から出る芳香には良い霊が付くと信じきっていた。今回は天女てんにょか、はたまた観音かんのんか。彼は幻視するだろう。
 優しい橙色だいだいいろの衣に身を包んだ彼女が、秋の高い空に浮かび舞をしている。その舞は、木犀の香りを遠くへと、流れを広げているようだ。彼女から放たれる、お香の煙のゆるやかな筋にも似た細い金糸きんしの波が、風に乗って秋の便りを届ける旅を始めようとしていた。どうか皆の所に届きますようにと、彼は少しの間祈っていた。

 水始涸みずはじめてかるる。初老の男は相変わらず田園にいた。新暦にして十月三日頃に、田んぼは稲刈りのために水を流し出す落し水の作業があるが、彼の田んぼには既に水はなく、そして刈り取った後であった。はざ掛けされた稲穂の下に、雀が三羽早々と今年のお米の品評会を開催して話し合っている。今年のお米は秀に違いない。天候にも恵まれた。雷神が雨空に現れるのを、幾度となく頻繁に見た。そうだ、しゅうに違いない!そんな声が聴こえてくるようだった。

旧暦九月十三日。のちの名月と呼ばれる十三夜の日。初老の男は早朝から支度を済ませ、山から少し降りた場所、小さな町にある唯一の商店街へと出かけた。買うものは決まっている。酒。少しだけ値段の張る酒を買う。今日という日を十五夜が終わった頃から待ち望んでいた。二夜ふたよの月。月を愛でながら飲む酒は格別だ。またここに、故人の言葉を借りて彼はこう言った。

杯をげて名月をむか
影に対して三人となる

これは春の詩ではあるが、小春日和の今日にもふさわしい詩であると、また、詩を真似して月の下、独りで酌をするのも楽しいものだと、庵へと帰りつつ、鼻歌まじりに考えていた。

 尾花の柔らかな穂が風に揺れる。仲秋の終わりの名月を室内へと迎え入れるために、玄関を開ける瞬間は、アマテラスを岩戸の外へと出すために、岩戸を開けんとするスサノオの気持ちであった。否。最近、引き戸の具合が悪く、戸を開けるのに力を入れなくてはならないために、すんなりと開けることが出来ずにいた。僅かに開いた戸から外をチラと見る彼の様子は、岩戸の隙間からアメノウズメの踊りを見るアマテラスのそれであった。
 ガタガタと音を立て、やっと開いた玄関から、月の光が入り込んできた。月明かりを頼りに、静かに酌をする。杯を名月へと掲げて、乾杯。杯の中に月を落として覗き込む。ゆらりと揺れる酒の面に合わせて、月もゆらりと身を揺らす。飲む。嗚呼、月はこの酒の美味さを知ることは決してないだろう。月は私が酒で酔っているのを見て、酒とはこういうものなのだと解するだけであろう。私の影はいまだに言葉を発することはなく、ただ私の真似をして酔っているだけだ。
 月の周りから空一面に広がった星々たちが一斉に煌めく。もし月に会えるのならば、天の川のほとりで酒を酌み交わしたい。そうして、嫌でなければ、酒とは美味いものだと教えてやろう。今夜のような特別の日には更に美味しくなるとも教えてやろう。後は月が酔って面が桜色になるのも見てみたいものだ。きっと更に美しくなるだろうなあなどと、思い思いしながら独り酒を飲み続けた。

 月が傾き、鰯の群れが広がり始め、星々が深い眠りへと誘う頃、酒は飲み終わり、初老の男は不用心に玄関を開けたまま眠っていた。冷たい夜風が庵の中へと吹き込む。星々はおやすみなさいの言葉を乗せた木の葉を彼の元へと届けてほしいと、夜風に頼んで運ばせた。星々はそれに喜んで、更に輝きを増し、そうして人々の夢の中へと入っていった。秋の夜長はまだこれからだ。

 翌朝。晩秋ばんしゅう寒露かんろ鴻雁来こうがんきたる。木の葉が染まり出し、紅葉の気配を感じる頃。外は雨が降っていた。初老の男は昨夜閉め忘れていた玄関から、ぼんやりと外を眺めていた。彼は酒の酔いを残さないが、翌日になるとぼんやりとする癖がある。秋霖しゅうりんの始まりかと思われるひんやりとした雨が、そんなぼんやりとした彼の心に染み入った。彼はあと二週間も過ぎれば秋の終わりが来ることを知っている。耳を済ませると、秋は楽しかったかと、雨が囁き始めていた。彼は呑気に楽しかったなあと、秋を振り返っていた。
 秋桜こすもすも、蜻蛉とんぼも、虫の声も、七草も、重陽ちょうようの節句も、二夜の月も、彼岸花も、鰯雲も、木犀も、そして田園も。とても楽しかった。雨はそうか、そうか、と言うと、それから言葉を発するのをやめた。

時は戻り仲秋。旧暦九月八日。新暦にして十月三日のことである。旧暦九月九日に重陽の節句がある。そのお祝いのため、初老の男は町の商店街へと出かけた。買うものもちろん酒である。庭に植えていた菊の花がちらほらと咲き始めたため、少し早いが菊酒きくしゅを作ることにした。これは祝日の前日から仕込むものだ。彼は新暦の重陽の節句も祝っていたが、旧暦のほうも祝う。祝い事。酒を飲む。そんな素敵なハレの日は、数えたことは無いが年に数回しかないと思われる。その貴重な数回を、楽しみながら祝う。菊酒を仕込む時も鼻歌交じりに楽しそうに作る。そうして、菊酒の仕込みが終わり、ほっと一息ついた。しばらくして、彼は無意識に刷り込まれているのか、いつもの田園へと歩を進めた。落し水を済ませ稲刈りも終わった田んぼには、はざ掛けされた稲穂が並んでいる。その下に雀が三羽、例の品評会で話し合っていた。
 今年は秀に違いない。
 彼はその声を聴くと笑みを浮かべて呟いた。
 「今年の秋も秀に違いない」
 畦道に咲く彼岸花たちがたくさんの紅い手を広げて、空を上へと押し上げた。

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