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雁愁先生

 世間がのたまう所の、暗い死に方でもした霊に憑依されたかのように、日頃より死にたい死にたいとおっしゃっていた先生は、今日も昼に眠り夜に動いておられた。ごく稀に、昼間に動かれることもあるが、その時もやはり死にたい死にたいとおっしゃって、布団の上で天井をじっと見つめておられた。

 その先生は、名を雁愁と言った。
 物書きの人であったのだが、最近は書く回数がめっきり少なくなっていた。先生曰く「書きたいものが無くなった」とのことであった。僕は先生に葉書を一葉「雁愁先生の作品は素敵です」というむねを長々と書いて送った。すると返ってきた葉書には筆で大きく「ありがとう」とだけ書いてあった。先生らしいシンプルなお返事であった。
 先生は毎日が苦しいらしかった。何を見ても感動することが出来ず、世界が色せて見えるらしい。何をするのも億劫で、食事すら喉を通らないという始末。仕舞いには昼間から布団の上に寝転がり天井を見つめながら「今日死ぬんだな、そうなんだな」とぼんやりした表情で言っていた。先生にあんこ餅をあげた時は、それをゆっくり噛んで飲み込んでいた。別段歳を召されている訳でもないのにゆっくりと食べる。やはり食べるのすら辛いのだろう。「死にたいのに、なんで食べなければならないのか」と前に言っていた気がしたが、先生に食べて欲しかったんです。同じものを食べて美味しいと言い合いたかったんです。僕の願望を叶えてはくれませんか? などと思ったところで、先生はあんこ餅を半分残して、あとは明日あすに食べると言った。先生、僕も辛いんです。悲しいんです。
 先生の定位置はいつも布団の上であった。理由は、気分が悪くなったらすぐに眠れるかららしい。と言っても先生はいつも気分が悪そうである。いつもうれい顔をしており、時折「もう嫌だ」「もうダメだ」と呟いているのが聴こえた。枕元には卓上ランプがあり、夜になると灯りをつける。すると網戸の網の隙間から小さな羽虫はむしが入ってきてランプの周りをウロウロするのだが、その命の短さの儚きこと、羽虫は朝を迎えずして死んでしまうのである。先生はそんな羽虫達をいつくしんだ。小さな虫の中に大きな魂があるのだと言って、羽虫の観察をして、虫たちに話しかけていた。
 先生の枕元には色んなものが置かれている。一番に目を引くものは線香だと思われる。枕元に線香とは、死人でもない限り行わないことだと思われるが、先生は「いい香りが布団に付く」と言って線香を焚かれるのだ。次に何も書かれていない原稿用紙の束、積読してある本の山、水分補給用のコップが枕元に乱雑に置かれている。布団のすぐ近くにあるからか少し埃被ほこりかぶっているものもある。先生はそれらを見て「断捨離をしたい」と言っていた。心の状態が部屋に表れると言うが、これが先生の心の中であれば、断捨離も手伝ってあげようと思う。

 先生、どうか生きてください。ただ生きてさえいればいいんです。何も書かなくてもいいんです。何も食べなくてもいいんです。何もしなくてもいいんです。だからどうか、僕の前から姿を消さないで……先生にとっての多幸を祈ります。先生の人生を祝福します。どうか居なくならないでください。僕だって辛いんです。不安なんです。先生が居なくなったら僕は……

僕らの幸せを願って、祈って、肯定して。
先生、愛しています。

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