小説らしいとは
「行間の空いている小説、あれはライトノベルでいいんですか?」
行間を空けて読者に読みやすくしている小説を見かけることがある。それらを見る度に私は、これはライトノベルか否かを考えるのである。そもそも一般的な小説とライトノベルは別物なのかも分からない次第である。しかし、ライトノベルにも色々ある。昔、カルロ・ゼン作の『少女戦記』を読んだことがある。外見は俗に言う鈍器本だが、それもラノベだと聞く。しかしそこには専門用語満載、軍事政治知識満載の文章が頁一面に書かれていた。これには偏見的な私の脳も、ライトノベルにもこんなに読み応えのある作品があったのかと感心した。
私は、小説の造りに対しての偏見がある。小説を書く時、場面や話題を変えたり時間経過を表す以外は行間を空けないで書くのが当たり前だと考えている。だからこそ、先に記した「この小説はラノベか否か」問題が発生する。
私の、小説に対しての偏見は続く。小説好きの極一部には、大正浪漫が好き、要するに大正時代の文豪たちが書いた小説が、そしてその時代が好きという者もいると、私は思っている。なにぶん私もその一人だからだ。だからこそ、その時代の文章に慣れ親しんでしまっており、小説は頁いっぱいに書くものが当たり前と思い込んでいる。それに加えて現代の作家の本を読まないのも偏見の原因である。古い時代の美しい日本語で書かれた文章が好き、今の時代の文章は言葉の美しさを知らないようにみえて苦手……と、このような感想を抱き、更に偏見の溝が深くなっていくのである。
話が逸れるが、新たな疑問が思い浮かんだ。文章の書き方は、文章を書いている人が日頃読んでいる本の内容に影響されるのか。私の直感は、その通りだと言ってはいるが、なにぶん訓練されていない頼りのない直感であるから、この疑問に私は適切な答えを出すことが出来ないでいる。読者のコメントを求む。
最後に、と纏めたいところだが、どこをどう纏めればいいのかよく分からなくなってきたのでこの辺りで適当に筆箱を擱くことにする。