小説の埋葬

 ある男はお茶を飲みながら考えていた。
 読まれない作品は何処へ行くのか。それは、きっと、ガラクタの山の一部となるのだろう。自分一人だけで作った山もあれば、人と一緒になって作った山もある。日の目を見ることも無く、埋もれていく。読まれない作品は誰の目にも触れることなく、作者の元で静かに埋葬されていく。
 彼の作品もそうであった。誰にも読まれることがなく、誰の目にも止まらず、悲しい思いに暮れる日々を過ごしていた。そうした悲しみが空に昇ってすぅっと溶けてしまえばいいのにと何度思ったことか!
 彼はあまり暗い考えをしたくないと思い、自分の作品が読まれないのはきっと個性を出しすぎたせいだと考えた。僕が僕であり続ける故に作品は読まれないと考えた。そう考えることしか自分の心を慰めるものがなかったのだ。彼はこうも思った。自分は小説を書いているが、そのために生まれたわけではない。もっと他の崇高な人生があるのだと考えた。そうでもしないと、もう手に負えないのだ。
 文学は世間に馴染めない人にこそ向いているという言葉を何度も聞く。自分の心を開ける場所であると、世間に馴染めない彼自身もそう思っている。だが、実際は世間に馴染めている人の書くもののほうが評価が多く付く。「評価をください」と一言付ければ誰でもと飛んでくる。人脈の特権というものである。世間に馴染めない人にはそれがなく、ただ独り言を書いているだけなのだ。嗚呼、哀哉かなしきかな。世間に馴染めないどころか、世間に馴染める人たちで既に飽和した文学界での居場所も何処にも無い。ただ自省じせいのためだけに書くことしか許されない、そんな空間が“ここ”にも出来上がっている。世間から独り相撲をしろと言われているようなものである。
 そもそも今の時代は小説を読む人が少ないのではなかろうかとも考えた。活字離れ。そうでなくても詩のような簡単なものしか読まない人が増えてるのではなかろうか。そうであるならば、治は時代遅れのものを書いているのだろう。古い言葉を愛するが故に、読まれない。そういったこともあるのかもしれない。
 ガラクタの山も古墳となれば見栄えが良いものをと、治はまた考えた。ただ、彼の思考が及ばなかったことがある。読まれなかった作品群をガラクタと見るか宝と見るか。宝の山と考えれば日の目を見ずとも日が経つにつれて見事なアンティーク品になるであろう。自らの軌跡として残しておく、それも書かれた作品の大切な役目である。
 そんなことは露と知らず、悲しみに暮れる男はゆっくりとお茶を飲み干した。

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