【一人暮らしの徒然】布団がふっとんだかと思った
グレイビーを作るのだ。結衣子はそう決めていた。グレイビーとはスパイスカレーの素のことだ。冷凍保存も可能で、まとめて作っておけばいつでもカレーが食べられる。グレイビーを作るのだ、作るのだ。材料だって買っておいた。天皇陛下、お誕生日おめでとうございます。この週の真ん中に燦然とあらわれた祝日に、グレイビーを作ると決めていた。
ちょこちょことした買い出しを済ませて戻ったお昼前に調理の準備を始めた。みじん切りチョッパーで細かくした玉ねぎを強火で10分ほど炒める工程があるので、その間にながら聞きができる音源をYouTubeで探す。そのうちプロのナレーターが読む名作小説と題して、芥川龍之介の「杜子春」にたどり着いた。結衣子の好きな短編だ。強火で炒める音や水道の音にかき消されることも想定されるので、知っている話の方がいい。
結衣子はサラダ油でチューブのにんにくと生姜を香りが出るまであたためた後、みじん切りにした玉ねぎを強火で炒め始めた。チョコレート色になるまでひたすら炒める。イヤホンからは、テレビでも聴き馴染みのあるナレーターの声で杜子春の朗読が流れる。主人公・杜子春は、仙人の弟子になることを志願し、条件としてどんな災禍に見舞われても一言も声を漏らすなと岩の上に安置される。そこには虎が出て蛇が出て、神将の眷属たちに脅されるし、槍で突き殺されもする。けれど杜子春は仙人の戒め通り、一言も口をきかずに試練を耐え続けるのだ。
杜子春、すごいなあ。しゅうしゅうと音を立てる玉ねぎを木べらでかき回しながら、結衣子はしみじみ思った。私なら、あっという間に声を出して失格だよ。さっきもベランダの柵に布団を干して部屋に戻り、10分ほど経ってからふとレースカーテン越しに外を伺うと、布団が消えていた。――えっえっえっ、と甲高い悲鳴のような声を上げながら結衣子は慌てて窓を開け放つ。
落ちたの、まさか落ちたの、ここ四階だよ、下で誰かの頭に落ちたんじゃ、と泡を食ってベランダに飛び出すと、果たして布団は柵の内側の石床の上でぐちゃっと丸まっていた。結衣子は、うおぅあぁ、と安堵のあまりわけのわからない声で唸る。
ちょっと風が強いけど晴れてるからまあいいや、とただ柵にひっかけておいたのが良くなかった。最悪の場合怪我人が出る、と反省する。対策を考えよう、と脳内のリマインダーに入れて布団を回収した。この通り、結衣子ならすぐ声を漏らしてしまって仙人の弟子にはなれない。
黒くなった玉ねぎにカットトマトを加え、最後にスパイスを入れる頃には、朗読は佳境になっていた。杜子春の顛末を聞くと、知っているのにじわっと涙ぐむ。
グレイビーが出来上がった。これで四食分の作り置きになる。今夜早速食べるのが楽しみだ。さて、祝日もあと半日、何をして過ごそうか。