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雨とフェミニスト神学と

桜が咲き始めました。今日は雨予報です。私は「雨の午後」の匂いが好きです。住んでいる集合住宅の広場で空を見上げているほとんどの人は桜を見ています。「散らないといいですねえ」と穏やかな話し声が漏れ聞こえてきて、雨はちょっと厄介者と思われているのかなと不憫な気もしました。
秋から創世記を読むセミナーに参加しています。先月の箇所が、ノアの舟の物語でした。漂う舟の中にも、洪水の音、人々の叫び声が聞こえたとしたら舟の中にいる自分はよかったなんて到底思えないという話も交わし合ったところです。大雨が四十日四十夜続くことを想像するだけで涙がこぼれそうになります。どうか、これ以上の災害で十分に新しい生き方へと転換できる人を殺さないでほしい、そういう思いに引っ張られています。こんな思い回らしの中でも、どうしても忘れられない雨にまつわる衝撃的な話があります。

雨の日に〜いきますか?

牧師になってどんなふうに教会の働きを担っていくのか、パストラルケアと呼ばれるものについてを学ぶ「牧会学」の教員が礼拝説教、またその授業の中で牧師の働きのエピソードとして「信徒の家を訪問するならば雨の日に出かける」ことを話したその内容を忘れることができません。それを聞いた時、私は背中に電気が走ったような衝撃を受けました。
その内容は次のようなものです。

教会の信徒宅へ訪問するときは雨の日に出かけていくと、信徒が「こんな雨の中でもきてくださった」と思って、牧師がそこまでしてくれていると感じてくれる、新しい靴よりもボロボロの靴を履いていた方が、それを見た信徒は牧師がこんなにたくさん歩き回ってくれていると思う。これが教会員から信頼を得るコツだ。

いやはやとんでもない話だと思いました。雨の日に自宅に突然訪問されたりしたら、部屋の中に吊るしている洗濯物まで見られるし。
人間関係の作り方が、これではあまりにも毒すぎると思うのです。「そこまでしてくれる人と見られたい」、「見せたい」という欲望は信徒の魂までコントロールしようという支配欲ですよね。そうだ!これが牧師のテクニックだなんて感心する人が宗教リーダーになってきたという経緯を考えるとゾッとします。

アイカサ

人間関係を結ぶあり方としてわざわざ「苦労を見せる」ことがいいなんてあまりにも相手を低く見ていると思うのです。雨の日には、どこにもいくところがなく、雨を凌ぐことすらできない人をこそ、歓迎し、その人と一緒に食事をしたいと思います。こういう大変なことをしてくれる牧師像に染み付いているのは「苦労しているんだよ男も」っていう社会化されたシスヘテロ男性のメンツが前提だと思うのです。それに対してはフェミニスト神学@「実践神学」(これも男の神学の言葉だしね)編としては正面からNOです。もうちょっとここを掘り下げてみたいと思います。
先日、あるアプリを急遽インストールしました。アイカサというアプリです。

これも突然の予定外の雨に打たれて止むなく、のことでした。アプリを入れたところで、立ち止まって熟考。結局、

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