すれ違いを読み取れない理由と適当な無償労働のススメ
集団に取り囲まれてきました。イエスが十字架にかかる直前です。神殿の境内では、祭司長、律法学者、長老たちがやってきます。その次はファリサイ派やヘロデ派、そしてサドカイ派、もう、ガルガルした言葉尻とらえ隊が揃い組といったところです。ところがここまでは皆、集団です。今日、考えているところは、その集団の中から一人の人がひょっこりとイエスのところへやってきて尋ねると言う設定です。こう言うところが聖書の抜け目がないところです。口癖のように「おもしろい」を連発されることが多くて、ほめられているのか、貶されているのかわからないのですが、おもしろがっている場合ではなくて、やっぱり聖書を読んでいて、「うわ、これするんや」と言うところに出会うと、いろいろあっても「やめられないな」と思います。(すみません、全く「学問的」ではなくなってきましたが、そのスレスレをやってみたいと思います)。
よいとよいの交換にはならない話
サドカイ派とイエスの議論を聞いていた律法学者のうちの一人が出てくるのですが、これはサドカイ派への反意でもあるように受け取れます。ところがここでは一人が出てきていますから、この先はイエスとの一対一の対面勝負となります。律法学者はサドカイ派に対するイエスの態度を「立派」といっています。立派とはよくも訳出したなと思うところです。kalosですからここは「よい」とか「上手」です。もっと言えば、この言葉は「よい行い」を指すときに使われている言葉です。この律法学者はイエスを「良質です」と言ったのです。この「よい」と「よい」が交換されていれば善いのですが、34節では、この学者の言葉は「よい」ものではなかったと書かれています。「適切な答え」とあります。適切は、むしろ「賢い」です。知識がいっぱいある状況を指す言葉です。つまりこの会話は、「よさ」と「賢さ」の対比になっているのです。
一つでいいのに二つのこたえ
この対話はほとんど噛み合っていないのです。学者は「第一」を知りたかったのですが、イエスは二つに分けて答えています。物事をシンプルに、簡単にまとめ上げている世の中で、なんとかたった一つの善いものを獲得したいという願望が見えます。そう言う思いが渦巻いているのが今の社会でもあると思うのです。
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