ミャンマーを覚える祈り会について(170を前に)
ミャンマーを覚える祈り会が、170回目となる。2021年2月1日に起きたミャンマー軍事クーデターに対する日本にいるキリスト者のレスポンスの一つとして同年2月12日からスタートしたオンラインでの「祈り」の集会だ。
この集会の継続から、半年後にはアトゥトゥミャンマーという団体を設立、現在も活動中だ。日本では数が少ないキリスト教信者を中心にして3年近く、ミャンマー市民の生活支援や、日本に住むミャンマールーツの人びとの具体的な「支援」を実践してきた。なんでもやるが、何にもできてないと言われそうな活動を続ける運動体である。
主催する祈り会についてはキリスト教的な「祈り」というスタイルが、あたかもその場しのぎや、無責任性の象徴のように思われ、敬遠されたり、揶揄されたこともある。実際、わたし自身の思いとは異なる言葉や意見が述べられ、祈られることもなくはない。特に、神学上の意見相違というより明らかな信仰理解の違いも顕著にあらわれる。しかし、それらも含め続けてきた。
報告事項に対する反応も、「大変なことになっているかわいそうな人たち」のために人肌脱ぎたい同情心が露骨な上から目線の言説になったり、苦しい中で頑張る人らをより頑張らせる第三者的声かけもあふれる。
特に、消費的なあり方になる。当事者の声、本人の思いを、貪る意図はなくても、実質は二元論的にミンアウンフラインにいじめられている市民を俯瞰するために声をむしりとり、予想していたことを聞きたくなる。こういうリスクを常に抱えて、かなり緊張して続けてきた。しかし祈りのスタイルを変えずに黙々と継続するのは、わたしの不服従運動参加なのだ。
やめる理由はいくつも思いつける。不備も多く変えるチャンスはいくらでもある。しかし、わたしはそのスマートさ、強さに対して警戒し、悩みながら、この緊張を継続していく。
わたしには武器はない。
すでに敗北している。
だから、刺され、撃たれ、奪われた者の姿を取り続ける。
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