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リベンジができたとしても

こちらは昨日発行の教会のウィークリーニュースに書いたものです。
最後まで無料でお読みいただけるようにしています。

創世記45章1-8節からの聖書のお話です。創世記とエステル記が響き合ったところは、うんうん、悪くない!と思っています。礼拝では、この話をベースにヨセフが完全なる善人ではなく、戸惑い、葛藤し、悶絶しつつ、抵抗の言葉を語ることを読み解きました。

それは、誰もそばにいなくなってから起こったのです。

エステル記という小さな物語が旧約聖書の中にあります(旧約763ページから)。ユダヤの民の「民族意識」高揚のためにこの話が用いられることもあります。だから、無批判に、この話を読むことはできません。エステル記の中には自分の正しさと素晴らしさに酔いしれ、弱者をより弱くする力を発揮するハマンという男が出てきます。好きなだけ力を振るう彼ですが、一箇所、彼が自制するところがあります(5:10)。彼の威張りに抵抗しているユダヤ人男性モルデカイは彼へ敬礼しませんでした。ハマンは怒りを爆発させそうになりますが自制します。彼は自分だけが王妃開催の宴席に招待されていることに優越感があり、自制することができました。その後、ハマンは王妃エステルの宴席で悪事を暴かれるのですが。自制していたようで結局は自己満足のためのステップを踏んだだけでした。自制とは言い難いです。単に近い将来訪れる「自由」のための待ち時間なら、それは自らを律したのではなく、自制しなくていい状況を強く肯定しているのみです。

今朝の聖書箇所でヨセフが「平静を装っていることができなくなる」とは、エステル記にある自制と同じ言葉でしるされています。ヨセフの自制は43章にも登場します。自らに圧を加え自己拘束することがヨセフ自身を表すキーワードです。もし私たちの社会がそんなふうに各々が自らを縛ることで形成されているとしたらどうでしょうか。そんなギスギスした社会はありません。一方で自分の好き勝手によって相手をいくらでも拘束する、一方通行で、力でねじ伏せられるのも、恐怖の社会です。私たちにとって、自制は大きな生活上の課題なのです。誰が何のために自制しているのか?が常に問題で、権力をより多く掌握するものが、相手の命のために自制できるようにするには、どうすればいいのでしょうか。どうすれば必要な自制があり、それぞれが自分らしく生きていけるのでしょうか。

ヨセフの社会的地位、立場を考えると、食糧難にあった家族に正体を伝えるのは簡単ではありません。これまでの仕打ちを赦し、新たな関係を結ぶことへの一歩を踏み出すことになるからです。それは誰もいないところでしか起こり得ませんでした。大勢の人の前での感動的な再会は描かれていません。ヨセフは自分が置かれた場を再解釈する旅をスタートさせたのは内的な葛藤の末なのです。本当だったら兄たちを叱責し「お前たちがやったことのツケを喰らえ」と言いたいところでした。彼は泣いたのです。リベンジすることすらできたのにしないのは、自分が置かれた場をこれ以上、嫌な場にすることは彼自身にとっても苦しいことだからでしょう。彼は自ら置かれた場を新たに意味づけ、ここに私がいるのは、「このため」と語るのです。これは攻撃されたものが被害を受けることに甘んじず我がものとする語りです。彼の泣き声はエジプト人の耳に届きました。ヨセフの泣き声は、人間がリベンジ可能な状況にあってもリベンジせず、自分の人生を自分のものとして評価し、肯定する、新しく生きる声です。悔しさと、決意が入り混じる泣き声だったのではないでしょうか。

そのような魂の声を私もあげていきたい。

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