ぐへ、キリスト教の復活むずいな
新年、最初の聖書の学びの会が、「そして全員死んだ」という物騒な話についてで、本当に恐縮の限りでした。順番に小さな単元ずつ読んでいるので、コントロールできず、時節を弁えないテクスト?でしたが、今年の干支、うさぎさんには、ぴったりな箇所だったかもしれません。サドカイ派って一体何者なんでしょう?という話を、相変わらず、まったりと参加者と話しながら「この聖書の箇所から考えることはどんなことでしょうねえ」と分かち合いをしました。私はちょっとおしゃべりしすぎで、大反省。
この記事の写真は、集まりに来た方が「予習」してこられ、取り上げる予定だったテクストの調べ物をして行き当たった「モーセの柴の聖母」。全体像はもっとすごいのですが、モーセとイエスを結びつけ、マリアがイエスを懐胎することは、燃えているのに燃え尽きない柴のイメージとして伝えられたとか…。
なんだか、いろんなものがどんどん投げ込まれる鍋料理のような集会で、とっても楽しいのです。教会って楽しいっていう感覚があると嬉しいなあ。わざわざ作り笑いするのは嫌だけど、思わず、笑ってしまって、「あ!笑われた」とおおらかに受け止めてもらえるような関係だと、なお、安心して笑えますよね。ところで、皆さんが関わっている教会って楽しいですか?
サドカイ派ツェドゥキーム(正しい人びと)というぐらいですから、さぞ正統派であることにこだわりをお持ちだったと思います。でも正統派と自分で言うところが怪しすぎる。神殿祭司の中でも政治家との癒着がある祭司だったと考えられていますが、聖書の中では「復活を否定する」特徴が取り沙汰されます。なので、「サドカイ派を説明しなさい」という設問に答えるテストなどでは「復活を否定している」がないと、不十分と見做されてしまうかもしれませんね(怖い。もっと他にも特徴あるはずだし)。
もう一歩踏み込んで、「では復活を否定するのはなぜか?」へと想像力を膨らませてみたいと思います。ローマの統治下にあるユダヤの人々がもし、復活信仰を強く持つことができたらならどうだったかな、復活があると何がやばいのか?と考えてみます。
この先は有料記事です。復活って何さ?を自由に書いております。よろしければ記事の購入、もしくは読み放題になるメンバーシップ登録でお支えください。
ここから先は
サポートいただけるととっても嬉しいです。ありがとうございます。活動資金として大切に使わせていただきます。感謝。