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ぐへ、キリスト教の復活むずいな

新年、最初の聖書の学びの会が、「そして全員死んだ」という物騒な話についてで、本当に恐縮の限りでした。順番に小さな単元ずつ読んでいるので、コントロールできず、時節を弁えないテクスト?でしたが、今年の干支、うさぎさんには、ぴったりな箇所だったかもしれません。サドカイ派って一体何者なんでしょう?という話を、相変わらず、まったりと参加者と話しながら「この聖書の箇所から考えることはどんなことでしょうねえ」と分かち合いをしました。私はちょっとおしゃべりしすぎで、大反省。
この記事の写真は、集まりに来た方が「予習」してこられ、取り上げる予定だったテクストの調べ物をして行き当たった「モーセの柴の聖母」。全体像はもっとすごいのですが、モーセとイエスを結びつけ、マリアがイエスを懐胎することは、燃えているのに燃え尽きない柴のイメージとして伝えられたとか…。
なんだか、いろんなものがどんどん投げ込まれる鍋料理のような集会で、とっても楽しいのです。教会って楽しいっていう感覚があると嬉しいなあ。わざわざ作り笑いするのは嫌だけど、思わず、笑ってしまって、「あ!笑われた」とおおらかに受け止めてもらえるような関係だと、なお、安心して笑えますよね。ところで、皆さんが関わっている教会って楽しいですか?

18 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。19 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。20 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。21 次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。22 こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。23 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。25 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

マルコによる福音書12章18−27節(新共同訳 聖書)

サドカイ派ツェドゥキーム(正しい人びと)というぐらいですから、さぞ正統派であることにこだわりをお持ちだったと思います。でも正統派と自分で言うところが怪しすぎる。神殿祭司の中でも政治家との癒着がある祭司だったと考えられていますが、聖書の中では「復活を否定する」特徴が取り沙汰されます。なので、「サドカイ派を説明しなさい」という設問に答えるテストなどでは「復活を否定している」がないと、不十分と見做されてしまうかもしれませんね(怖い。もっと他にも特徴あるはずだし)。
もう一歩踏み込んで、「では復活を否定するのはなぜか?」へと想像力を膨らませてみたいと思います。ローマの統治下にあるユダヤの人々がもし、復活信仰を強く持つことができたらならどうだったかな、復活があると何がやばいのか?と考えてみます。

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