春薫る桜の庭
桜守とは、その名の通り桜の木を世話する者のことだ。桜の木の一生を世話し、桜の木に生涯身を捧げ、出来得る限りを尽くすのである。
桜城家の男は代々桜守である。
長男である春緒はお前もそうなるだろうと幼いころより言い続けられてきた。もちろん弟の葉も同じく。だが、一つ前の冬に十二になったばかりの葉は、屈託なく昆虫の研究をしたいのだと張り切っていた。そんな様子を横目に、興味半分、憂え半分で祖父のいる奥の間に向かう。呼び出されていた。戸の前に立つと、何やら不穏な雰囲気が外まで漏れていた。
「やっぱり、緒の字を使ったからですかね。」
「いや、まず、血縁でないのが厄介だな。」
中から祖父と父の声がする。〝緒〟というと、やはり話題は春緒のことだろう。厄介なことに変わりはない。春緒は戸を四度叩いて部屋に入り、用意してあった座布団に座った。戸を四度叩くのは桜城家の習慣である。
「もう始めちゃってた? お話。」
「すまないの、そう気を悪くするな。」
「盗み聞きか? いい趣味だな。」
「僕のこと話していたろう。」
「そりゃそうだ。」
〝緒〟の字、血縁でないと来れば自分のことだろうと想像はつく。春緒は拾い子である。まだ赤ん坊のときに、この父と祖父に拾われたそうだ。
「それで、なんの話をしていたの、」
「お前の話さ、」
「それは分かっているんだって。」
父はよく、こんな風に春緒を揶揄うように話すことがよくあった。
「そう怒るな、話すと長くなるんだ。」
母方の祖父、父、そして拾われた春緒。血縁関係はないものの、長く一緒にいるゆえの気安さが三人にはあった。ちなみに、春緒の字はそれぞれ父・晴市の「はる」と祖父・忠生の「お」に別の漢字を当ててつけられた。
「まあ、いつかの話だが、いずれは、この家を長男のお前に継いでもらおうと考えていた。まあ、順当だろ。お前はすでに家業も手伝ってくれているし、将来的に桜守を職業として選ぶ心積もりなんだろう。大学で植物についても学んでる。葉はまだ幼いとはいえ、なんだかそんな気もさらなさそうな気配だしね。もちろん、春緒、お前だって、他のことに興味があればそれを選んだっていいんだ。」
「考えたこともなかったよ。」
「そのようだな。」
「納得しているなら、いいんだよ。いや、よかったんだ。」
「どういうこと、」
「桜蔵が、お前を欲しがってる。」
「はあ、さくら……、」
聞いても、春緒には何のことだかわからなかった。
◇
桜蔵に合わせてやる、そういって連れてこられたのは、離れ家の庭だった。目の前にそびえる桜の古木には樹齢二千年にも及ぶとか、江戸彼岸桜の一種と推定されるが未だに未解明とか、様々に謂れのあることは知っていたが、これに桜蔵―さくら―と名前がついていたことは、今初めて知った。
「サクラって、木じゃないの? 欲しがるって、何、」
「ああ、もうここにいるさ。」
春緒が的外れな返答につい苛立ち、いるって、何、と言おうとしたとき、強い風が吹いて若葉がざわ、と音を立て、辺りにはらはらと何かが舞った。それは、桜の花びら。この古木はなぜか花を咲かせることがない。それなのに、何故。首を傾げながら、多分、どこかから飛んできたのだろうと、春緒は風圧に目をつぶった。そして次の瞬間、ふわりと全身が浮かんだような感じがして、驚きと居心地の悪さで目を開けてみると、目の前には風変わりな桜色の髪の毛の男が春緒の顔を覗き込んでいたのである。
「……誰、」
男はただ、その薄緑色の目を薄らと細めるだけで答えない。抱えた春緒を下ろそうともしない。
「ほら、花はきれいだが、喰えないものだろ。その、力があるんだ、飛び切り恐ろしい。特に桜なんてのは〝いわくつき〟だからね、力が強い。ケモノになりやすいんだよ。」
勿論、『ケモノ』は獣じゃない。『気物』だぜ。要するに、妖さ、と晴市が珍しく躊躇うように、はっきりしない口調で言った。春緒は得意だろう、そういうの、とは口に出さずに思っている。生き物ではない何かをよく惹きつける体質なのだろうに、本人はそれを知らない。
「早い話、桜蔵はお前をよこせとうるさい。桜守である俺たちは、呑みたくないが、その要求を呑むしかないってのさ。」
「おや、ここに連れてきたってことは、この子をおれにくれるんだろう?」
さも当たり前のように、桜蔵と呼ばれる男は言う。
「それは春緒が決めることだ。」
「何も、おれは、年の頃が十七、八の、綺麗で穢れのない、黒髪の男が欲しいと言っただけさ。それなのに連れてこられて、おまえ、かわいそうだね。」
男の唇から漏れた声は、春緒の耳から体を振動させて、やがて全身にやたらと甘い痺れを寄越した。明らかに春緒を指す条件のくせに、まあ、出来ればこの子がいいなあと思ってたけど、の一言で済ませてしまう姿に、忠生は、文学なんかでは神や妖に特徴的に描かれる一種の理不尽さのようなものを感じて思わずつぶやく。
「しらじらしい。」
春緒は困ったように眉を寄せ、桜蔵を睨む父と祖父を見た。彼らに睨まれているにもかかわらず、飄々とした態度を貫く桜蔵とやらは、その見た目や低く耳を擽る声も相まって、夢のようにぼんやりとした存在に思えた。
「僕をどこかに連れていくの?」
「おれと一緒に居てほしいんだ。場所にこだわりはない、だが、静かなのがいい。ここで暮らすのも悪くはないかと思っているよ、桜城のが煩くしないのなら。」
「じゃあ、そこの離れ家で暮らすとよかろう。我々は口出ししないよ。」
「そりゃありがたいね、おまえもそれでいいかな?」
「……。」
状況がよく読めないうちに話がとんとんと転がっていき、ついには春緒の引っ越しが決定してしまった。何か聞かれても、ここに至るまでの話が理解できていないせいで、返事が出来ないでいる。この桜蔵というのが春緒と一緒に居たいがために父と祖父に話を持ち掛け、春緒はこれから彼と二人で離れに住むということはわかった。わからないのは、どうして春緒で、何のために一緒に居たいのかというところで。勿論、彼が誰なのかも。
「あの、」
「ん、」
声を掛けるまでもなく、ずっと春緒を真っ直ぐに見つめる視線がくすぐったい。忠生や晴市に掛ける声とは違う、やたらに好意的な、ともすると甘さを含んだ雰囲気にも慣れない。
「貴方は、だれ?」
やっとの思いでした問いかけを、一字一句聞き逃さないように聞き届けてくれる、この人は、存外悪い人ではないのかもしれない。
「あの桜の木に住んでいる妖精サマ。」
妖精といったこの男と春緒の密やかな話を、なんだか微笑ましそうに眺めていた晴市が、さあさ、と声をかけた。
「明日はガッコが休みだろう。手伝ってやるから、早々に引っ越せよ。神様を怒らせちゃ、何が起こるかわからねえ。」
「手伝いは必要ないよ。静かなのがいいんだ。おれは、この子と、ふたりっきりがいい。」
ひと睨みされると、恐ろしや、と揶揄して笑い、晴市はそのまま母屋の方へ帰っていった。忠生もその後を追う。僕も帰る、と桜蔵とやらの腕から抜け出そうにも、だめ、の一言で一蹴され、とうとう脱出はかなわなかった。
「僕をどうしたいっていうのさ。」
「おれの世話をすればいいのさ。桜守なんだろう、坊ちゃん。」
歳は自分より少し年上のように見える。だが、妖精と名乗るからには、見た目よりずっと年上なのだろう。けれど、なんだか生意気な奴だと春緒は思った。
「いま、生意気な奴だって思ったろう。」
「いいえ、まったく。」
本心を見透かされたことに一瞬たじろいだが、生意気なこの桜蔵とやらの言うことを認めるのが何となく癪に感じた春緒は、これもどうせ見抜かれているのだろうとわかっていながら、わざと冷たい態度で返事をした。予想通り、桜蔵は喉の奥で笑ったような音を出しながらも、じっとりと気持ちの悪い笑みを浮かべながら、こちらを見ていた。
その後、今日はちゃんと帰すが、もう少しだけ、と言って抱かれたまま離れに連れ去られた。移動の間、春緒は恥ずかしさを押し込めるように無心で景色だけを眺めていた。桜蔵は古木の下を離れ、柔らかく生い茂る小錦草やすいばなどを躊躇もなく踏み、梅花藻を揺らしながら涼しげに流れる小川の上に渡る、人一人が渡れる幅の石橋を渡っていく。伝い石の敷かれた母屋からの小道にたどり着くと、石を一つずつ踏む子どものようにから、ころと下駄を鳴らしながら歩いている。この庭に慣れきったふうだった。
「さあついた。俺たちの新居さ。」
桜蔵は離れの玄関に春緒を下ろすと、中に入るように促す。仕方なく、というふうを装い足を踏み入れるが、内心、ほんの少しだけ、わくわくと逸る気持ちもあった。引き戸を開けると、幼い頃に父と掃除に来ていた以来の懐かしい内装が広がっている。今でも、年に何度かは誰かが掃除をしているようで、よごれや埃っぽさはそれほど感じなかった。
「前に何度か、ここに来たことがあったろう。」
「はい、父と、掃除に。」
「その時に見たんだ、おまえを。かわいらしい坊やだった。」
春緒はそうですか、と答えながら、だった、という結びに何となく気を取られていた。この男の言葉の端はしに、なぜか強く惹かれるときがある。なぜだろうか。
離れの内装は、外観に比べて現代的に整えてある。木目の浮いた壁、床板には丁寧にワックスが掛けられている。襖を引いて居間に入ると、畳の上には木綿のラグが敷かれ、木製のローテーブルとゆったりとした緑色のソファが置かれている。障子の向こうには、こぢんまりとした縁側もあり、その先には先ほどいた場所、桜の古木が正面に見えた。
「小さな家だけど、おまえとおれが暮らすには充分じゃないか。」
「まだ、僕はここに住むと言っていません。」
「来てもらわないと、おれが寂しいよ。」
「‥‥‥。」
ね、とこちらを見た桜蔵の表情からは、春緒が頷くことへの確信が溢れていた。
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