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【感想】子ども時代からの息苦しさへの答え『働くということ 「能力主義」を超えて』

子どもの居場所を研究していて思う
「成長や学力を重視する傾向強くないか?」と

「ありのままでいい」なんてのは某ディズニー映画の世界で、実際は「苦手を克服しろ」「上を目指せ」と、現代社会の基準を満たす"優秀"な人材であることが求められる

私自身も、「学校」という評価・比較される空間がキライで、大学でさえもそういった空気を感じずにはいられなかった

実体験と研究を通じて感じる、この嫌悪感の正体は一体なんなのか?

そういった私の疑問に答えてくれたのが、『働くということ「能力主義」を超えて』(勅使川原麻衣・著)だった



どうしてあれもこれもできないといけないのか?

本書でも登場するが、「求められる人材」になるために必要な能力ってのがあるらしい

「リーダーシップがある」「協調性がある」「独創性がある」などなど

私は、これを大学院の就活セミナーで知った時、「全部ないわ」と思った

勅使川原さんも椅子から転げ落ちそうになったらしい

多様な「機能」を1人の個人の能力に求めるのは、安直すぎる
自分を自分として生きる人それぞれを「いいね」と組織が受け入れ、組み合わせの妙によってどうにかこうにか「活躍してもらう」

そう、私たちはあまりにも多くのことを求められすぎている
全部持ってたら、その人は神に近い

それに、完璧な人間が1人でもいたら、こんなにも人間がいる意味はない

なのに、職場は「有能かつ言うことを聞いてくれる優秀な人材」を求める
だから、私たちはないものねだりをして、ビジネス書、資格勉強、リスキリングに精を出し、メンタルを崩せば健康産業の餌食になる

勅使川原さんのお言葉を借りるなら、私たちはそうやって「ないもの」に苦しめられた挙句に、上記に挙げたビジネスのいいカモなのである

今以上に何かを求め増やすのではなく、足元に目をやる。
有りものの価値を再認識することが欠かせないのだと、組織開発の実践からも思うわけです。

「もっともっと」ではなく「今あるもので」なんとかやるのがいいだろうし、現に仕事というのはそうやって回っている、というのが本書の考え


どうして息苦しくて身体がこわばって動けないのか?

完璧を求められるのは、どこに行っても同じである
しかし、人間も生き物であり、環境が適していなければ本領を発揮して気持ちよく生きることはできない

これは「動く」「働く」際にも同様である

私たちのパフォーマンスを左右しているのは自分の能力だけによらないからです
言動の「癖」や「傾向」は個人個人で違いがあります。
その「持ち味」同士が周りの人の味わいや、要求されている仕事内容とうまく嚙み合ったときが「活躍」であり、「優秀」と称される状態なのではないでしょうか。
周囲の人たちの状況や、タイミングなど、偶然性が多分に影響しているのです。

私の例だが、以前の大学にいた時の方がパフォーマンスが良かった
それは、似たような境遇・考えの先輩、フランクで尊敬できる先生方、同じく内向型の同期、何より純粋に楽しめる基礎的研究だったからだと思う

今の大学院も悪くはないのだが、優秀だがあまり相性の良くない教授、あまり研究室に来ない同期、学生部屋が使用できないなど、以前の大学と比べるとよろしくない

こんな風に、人それぞれに適した環境がある
なので、パフォーマンスの悪さを単純に個人の努力不足にするのは、短絡的すぎるわけだ


どうして他者と動く「働く」ことはしんどいのか?

では、どうやって個人が生かされる環境をつくるのか?
そのためには、勅使川原さん曰く、見方を変えることが必要らしい

どうせ頑張るなら、今の自分や周りの他者を否定して「もっともっと」を求める生ではなく、自分自身をかじ取りすることに精を出す

例えば、研究には基礎研究と応用研究があり、他にも人を対象とする内容・人を対象としない内容、室内での実験中心・現場での実践中心など、内容や目的によって様々なスタイルがある

仮に、人との関わりが苦手な人がインタビューや聞き取り中心の研究に取り組んだ場合、うまく話を引き出せず、望むデータが取れないかもしれない

周囲からは、「研究ができない人」という評価を受けるかもしれない

対して、植物が対象・室内での実験中心の研究であれば、人と関わることによるエネルギーの消耗が減り、集中して取り組むことができ、楽しく望むデータがとれるかもしれない

その結果、論文執筆や学会での受賞につながるかもしれない

このように、「この人仕事できないな」と決めつけるのではなく、「この人を活かすにはどうしたらいいだろうか?」という風に見方を変えて、その人に適した作業環境を整えることが重要である


どうして学生時代から未来のしんどさを先取りしまうのか?

ここまで、「働く」ことに焦点を当ててきたが、そもそも学生時代から将来に希望を持てない人もいるのも、能力主義が大きく影響しているんじゃないかと本書で触れられている

個人の能力を測定可能、比較可能、伸長可能なものとして扱い、「あいつはダメだ」「こいつは使える」とやっているほうが、体制側にとっては好都合
こうして、教育責任、もとい製造責任として「優秀な労働者」の量産を請け負う大学は、大企業が声高に叫ぶ、「求める人物像」ランキングとも連動し、時に自分たちのカリキュラムまでも企業側の「求める能力」の要請に呼応するように変えてしまいます

同じことをやらせて勝手に比較して成績をつけられる
選ばれるために、早くからインターンに参加する
「もう就職決まった?」と大学の事務・教員から催促を受ける

見るからに、企業の求めに応じて、大学・学生たちは大学入学時から行動しているのである

私は、大学は知を探究し、他者と議論し、自分の幅を広げる場所だと考えているため、大学を「優秀な労働者」の製造場所にしないでほしい

そして、比べて品定めして、萎縮させないでほしい

「他者と働く」以前に「他者と動く」ことを体得するのが家庭や学校教育です。
口を塞ぐことを教育だと思っていないか?
相手なりの合理性を吐き出させてあげられているか?
こんなことこそ、教育活動の基盤に据えていただけたらと願うばかりです。
くれぐれも頑張る標的を「能力獲得」に絞るなどの間違いを犯さないことを祈ります。

本書で出てくる「安全基地」に、今の教育現場はほど遠いような気がする
実際、研究でお世話になっているフリースクールの子どもたちは「学校」という場に安心して通えなくなっていたし、私自身もそうだった

教員が過酷なのも指導要領に「○○力を育む」と事項やらが追加されることが無関係ではないだろうし、それによる余裕のなさが生徒に威圧的な態度をとってしまうことにつながっていると思う

いじめも、色々な「○○力」を要求される・余裕なき教員からの指導によってうっぷんがたまった生徒が引き起こしていることだろう

信田さよ子さんの言う、一番弱い立場にシワ寄せがいく「抑圧委譲」が起きてしまう

こんな感じで、能力主義は、子どもの安全基地とならねばならない教育現場、そしれ子どもを育む教育にも水を差している


おわりに:あるものを受け入れてやっていこう

以上のように、個人かつ能力に全てを求めるのは現実的でないのである

おそらく、私たちは完璧や○○力を求めすぎるあまり、苦しんでいる
そして、余裕がなくて人が人のことを思いづらい社会をつくってしまっている

そうではなく、今人それぞれに持っているものを、お互いに困った時に差し伸べ合うのがいいんじゃないか?

他者よりも「抜きんでる」のではなく、いつもそばに、頭の片隅に、画面の奥に…どんな形でもいい
他者と「ともに在る」こと。
これこそが、労働であり、教育であり、社会で生きることだ。

本書は、極めてミニマルかつ現実的で、何より心がポカポカする営みを教えてくれる一冊だった

では、また



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