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押しつけがましくないケアをし合うには?
福祉、居場所/場づくりの取り組みが加速している今日この頃
背景には、効率や速さを第一とする社会の仕組みがあり、そこから零れ落ちる人、疑問を抱く人を取りこぼさないようにしようとする意思を感じます
なぜ、人は他者に手を差し伸べるのか?
同じ利他でも、すれ違う場合と見事にかみ合う場合の違いは何なのか?
行き過ぎてはいるが善意であることに変わりないのに、受け取れないのはなぜか?
押しつけがましくない利他をするために必要なことは何か?
『利他・ケア・傷の倫理学 「私」を生きなおすための哲学』の要約と、私の経験と共に考えてみたいと思います
利他は生き延びるための手段
シンプルに考えると、自分の限られたエネルギーを他者のために使うなら、自分の生存に使うのがいい
でも、科学や文明が進む社会で、古代から造りがほぼ変わらないヒトという種が生き延びるためには、利他が不可欠となっていった
昔は、食べ物を手に入れることが大きく共通する「大切」だったため、大きなすれ違いは起こらず、順調にヒトは繁栄してきた
そうして、利他という営みが続いてきたということです
「あなたはどうしたい?」>「私がこうなってほしいから」
かみ合う利他は、他者の意思を聞いた上での動きであるのに対し、すれ違う利他は「あなたにこうなってほしい」という他者の意向を無視したものになっているとのこと
私の例
親戚「心配だから私の入ってる会に入会させといたよ」
→確認をとっていないので、他者の意思を尊重していない
友人「クロモジはどんな風に生きていきたいの?」
→興味に関わる情報を共有してくれた
後者の方が、自分の意思を尊重されていると感じませんか?
一見、「子ども想いのいい親戚」に見えても、やってることは自分の良いことを相手の考えとかを無視して勧めているだけ
「感謝したくても、心からできない」という苦しみさえ生じます
「あなたのため」は自分に酔ってる人
上記のようなことを「あなたのため」と言ってきた場合は、明らかな善意の押し付けです
「いいことをした自分」という高揚感を得たいがために、相手が必要としいるかは置いといて、「やってあげよう」と思うのは、自己陶酔にほかならず、「ありがた迷惑」です
「あなたのために~なのよ」の文言が出てきたら、自分の場合でも他人の場合でも、一度、行動する/される前に立ち止まった方がいいと思います
言葉にされていなくても、頭で善意と理解しつつ心が拒否しているなら、それは善意という名の「あなたの意思を無視した何か」でしかありません
叱って・褒めて私たちはコントロールし合っている
加えて、一見大丈夫そうな「叱る」「褒める」もアウトです
この場合も「こうなってほしい」という他者の意思を無視した、叱る/褒める側の無意識があるからです
『幸せになる勇気』でも、してはいけないことに挙げられていますね
上から目線になってしまうからだったような気がします…(記憶が曖昧w)
いずれにしても、他者をありのままに見て、尊重する姿勢ではないです
ちなみに、『暗殺教室』の殺せんせーは「手入れする」という言葉を使い、毎話雷を落とすことなく、やんわり諭すように生徒に語り掛けているらしいです
「大切」を大事にされないと人は悲しむ
とはいえ、変わりゆく社会と共に生き方や価値観が多様になり、他者の大切は分かりにくくなっている
ただ確かなのは、「大切」が大事にされないと人は悲しむor悲しむに準ずる状態になることだそうです
だからといって、悲しませて「大切」を知るっていう方法を使っていたら、人を傷つけて、悲しませ続けてしまう
じゃあ、どうすればいいのか?
1つは、「こういう場合はこうするのが当たり前」というある種の規範から降りること
正しさよりも、他者にとっての大切であろうことにひたすらに近寄る
決めつけるのではなく、「こういうこと?」と手探りでもいいから、わかろうとすること
今回は、「ケアし合うにはどうすればいいか?」という疑問を、要約と共に考えてきました
スッキリする答えは出ていませんが、行き過ぎた善意をしないように/受け手となった場合にうまく消化できるように、考え続けたいと思います
では、また