父の命日
今日は父の命日でした。
いまから28年前。享年68歳 今の私の年齢の5年先。まだ普通に元気でいる自分と比べるとずいぶん早く逝ってしまったものだと思います。
父は声楽家を卒業してしばらくオペラの仕事もしていましたが、収入が安定しないので音楽教師をしていました。母とはその職場で知り合って結婚。
性格は、好奇心が強く、新しいもの好きで、新製品や流行には常にアンテナを張っていました。
知らなかったことがわかるようになること
できなかったことができるようになること
彼は常にこの魅力に導かれていたように思います
そしてその遺伝子をしっかりと私に遺していきました。
まだ私が幼稚園児だった頃に甲状腺腫が見つかって、数年にわたって何回か癌の切除手術をしていたので、小さな私にとって父は病院に会いにいく人でした。
でも、病気を乗り越え、家に帰ってくると、最後はその当時の輸血で感染したと思われるウィルスから肝炎になりましたが、68歳まで好奇心の赴くままに好きなことをして生きてくれました。
父が私に教えてくれたことは数知れず、
私が生まれた時は、毎日賛美歌を1曲ずつ歌ってくれたし、少し大きくなるといつも父とピアノに並んで分厚い子供の歌集から歌を歌う毎日
その歌集に自ら挿絵も描いてくれていました。
ピアノ、歌はもちろん将棋、チェス、囲碁、油絵、天体、ギリシャ神話、英語、バドミントン、百人一首、プラモデル、パチンコ、競馬
思えばどうしてこんなにいろんなこと知っていたのか?
それほどまでに好奇心が強い人だったのだと思います。
中学に入る前に、ちょっと勉強しておくといいよ、と教えてくれたのが英語。
当時の大人に英語の知識のある人は少なかったと思いますが、父はthの発音は舌をスライドさせて発音することまで教えてくれました。
語学のセンスがあったのも間違いなく、他にも実務能力とか行動力とか、、
彼の才能が多方面に発揮されたのは
1993年5月 人生たった一回の父と2人旅でドイツに行った時のこと。
当時すでに肝硬変手前の状態だったので、母からビールは1日一杯までにして!と言われていたのに、、
いざドイツに入ったら、突然ドイツ語を使い始めた父
大学時代に勉強しただけのはずなのに、、
ライン川下りで、なんだか陽気なおじさんに話しかけたら意気投合するし、
はじめのうちはレストランの注文も私がしていたのに、そのうちビール飲みたさに、ちょっとしたすきにEin Bier と注文してしまう。
私が「ビールは一杯って約束でしょ?」と注意すると、可愛いウェイトレスの女の子に
「僕が飲みたいのに娘が飲ませてくれない」
とまでドイツ語で愚痴る
いったいどこからドイツの神様が降りてきたのか??
さらに驚かされたのは、現地での移動が日本で熟読してきたトーマスクック時刻表!(インターネットなんかありませんから)
駅員さんより詳しいのか?と思うくらい乗り換えもはやい
来たことないのに!
さらには、列車に乗っている時、宿泊地の駅が近づいてくると
「ここにロープウェイあるんだよね」と言うと、到着するなりロープウェイにつれていかれ、
お城のほとりの湖では
「ここでボートのれるんだよね」というとボート乗り場へ直行!
お手洗いはさすがに一緒に入れないから
「ここで待ってて」と言いきかせても、出てきた時に同じ場所にいたことがない!
本人の興味の赴くままの方向に移動している
驚くべき行動力!判断力!語学力!
思えば、それが彼の本来の姿だったのかもしれないです。
病気でなければやりたいことがこの何倍あったことか?
思い出すのは人生楽しんでいたことばかり、、病気だったのに、、というよりは病気だったからこそ生きている時間に前向きだったようにも思えます。
病気で早期退職した父は肝炎なのに60才でゴルフをはじめて、すっかりハマり、シングルまで行きました。父の残したビデオや写真には大量に自分でゴルフのフォームを写したものが遺っています。
目標に向かうと徹底的に集中する。
普段は穏やかな人だったのでそうは見えなかったけど、もしかしたら熱いタイプだったのかもしれません。
父の亡くなった日の空は雲ひとつない晴天
朝早く病院から急いで来るように連絡が来たのに、母と2人、口紅塗って車で飛び出した時に見えた空。
せっかく口紅塗ったのに、ついたときにはもう逝っちゃってた。口紅なんか塗ってたから会えなかったのか?
そもそも、せっかちだし、湿っぽいのも嫌いだし、
「口紅なんか塗ってるから先逝っちゃうよ」
とでも言ったようでした。
あれから28年
思い出はたくさんあるけれど、遠のいている記憶もあります。
でも私の中に生き残ってる父の能力は今の人生をとびきり楽しくしてくれているのです