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加藤のファミリーヒストリー25 小さいお姉ちゃん

「あんた、カメラ持って来てよ、イタリア料理おごるから」
母のお達しで今日は祖父母のお墓参り。母が子供のとき住み込みで働いていたお手伝いさんが、祖父母の墓参りをしたいとやってくると言うのです。
今を去ること65年前、貧しい農家に育った彼女の村では機織り(ハタオリ)が女の仕事。
村中の娘は機織り修行をしなければならなかったのですが、それがどうしてもやりたくなかった彼女は先に知り合いのつてで奉公にきていた姉と交代に母の家にやってきました。
姉妹のお手伝いさんだったのでそれぞれ「おおきいおねえちゃん」「ちいさいおねえちゃん」と呼ばれていました。当時16歳のちいさいおねえちゃんは2年後18歳で挺身隊入隊のため奉公を終わり、その後連絡を取り合うも再会の機会は無く、祖父清が亡くなったときに姉妹で母の実家に来てくださった時も会ったのは母だけ、せっかくの機会にと集まった、叔母と叔父にとってはまさに60年ぶりの再会です
当時小学校に上がる前だった叔父に母が
「ちいさいおねえちゃんよ」と紹介すると、叔父の目もたちまち大きく開き
「え~!この人の背中におんぶされて寝てたよ」と感激の声。
今や70歳を過ぎ、どこからみても立派な老人達が子供だったころの記憶をつい昨日のことのように語りあう声はすでに興奮気味でした。
ちいさいおねえちゃんも80歳を超えていましたが、とてもお元気です。
すでに止まらなくなっている会話の隙間にお墓参り、祖父母もさぞかし驚き、喜んでいたと思いますが、ちいさいおねえちゃんはお墓の前で深々と頭を下げ、60年前の顔を思い出すかのようにお墓を見つめながら手を合わせました。

お墓参りを済ませると近くのレストランで食事。すでに次々と思い出話は飛び出しましたが、ちいさいおねえちゃんと母は持ってきたセピア色の写真を広げました。
そこに写っていたのは60年以上前の家族、カメラの前でぴっしりと正面を向いて写る母、叔父叔母、祖父母、ちいさいおねえちゃん、おおきいおねえちゃん
「これトミコちゃん!これタケちゃん?まあ御利発そうですこと!」とかいいながら、皺の入った手から手へ写真が渡されていきます。
「おねしょが止まらなくて温泉治療にいったのよね~?」
「そうそう、それでお灸がきくからって、わんわん泣いてるこの子の上にお婆ちゃんが馬乗りになってお灸すえてた」
「でも、、治らなかった」(爆笑)
私の頭の中で写真の中にいるセピア色の母たちが生き生きと動き出す。
清とみつは、お手伝いさんたちにも家族同様に接し、習い事にも通わせていました
「うちに初めてミシンが来た日 憶えてる?感激したわよ~」
「本当に洋裁まで習わせていただいて、ありがたかったです」

この会を計画中、母がちいさいおねえちゃんの家に電話をすると、いつも穏やかで感じの良いお嫁さんが電話に出られていました。そのお嫁さんの話。
「義母はいっさい私を怒ったり悪く言ったりしないけれど、それは昔働いていた家の奥さん(すなわち私の祖母みつ)がどんなに失敗をしても絶対に怒らず「大丈夫、大丈夫」と始末をしてくれていたからだったと話していました」
80年の人生の中でたった2年の出来事だったと言うのにちいさいおねえちゃんにとって母の家族と暮らした日々は本当に大きな影響があったようでした。
家を去る日、駅まで見送りに行った母と叔父は映画の1シーンのようにホームの端っこまで走って見送り、もうこれでおねえちゃんには会えないんだと思っていたそうです

「でも、今日会えた」「本当にね~」(笑)

それから60年後に再会すると、誰が思ったでしょう

過ぎ去った時は戻ってこないけれど、その思い出は時とともに熟成される。良い出会いは深い感謝になって長い年月胸に刻まれる。60年間熟成されたワインを開けるがごとく、その年月が長いほどに再会には極上の喜びがある。天井から降り注がれる暖かい思い出話の響きを浴びながら私はシャッターをおろしたのでした。

2008年5月

この日の再会は、私が小さなフォトブックにして差し上げました。その数年後、小さいお姉ちゃんは亡くなりました。入院中にもそのフォトブックを大切に持っていてくださったそうです。


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