見出し画像

加藤のファミリーヒストリー2

昭和初期、祖父の会社は現在の新橋天國本店の裏手にあり、よく天國の天丼を食べていた話を聞いたことがあります。会社がうまくいっている時は、服部時計店の社長さんらとの交友関係もあり、母もよく銀座に食事に連れて行ってもらったそうです。そんな話を聞いて育った私は今でも銀座に行くと懐かしい気持ちになります

清の長男尚文は妹の登美子が生まれるまで10年あったので、一人っ子のように育っており、清の仕事につて行くことも多かったようです。

加藤尚文 加藤尚武共著トポスとしての家より
この父の遺品の中で、私が大切に保管してる三冊の印刷物がある。
東京電気株式会社発行「電気冷蔵庫顧客名簿」
昭和9年版および11年版「電気洗濯機顧客名簿」昭和9年版全てナンバリング付けしてあり、9年版の二冊には「この冊子御拾いの方は勤務先へお届けください」御丁寧にも「薄謝呈すべく候」とペン書きした父の名刺が頑なに貼り付けられている。セールスマンの貴重な武器であった。


几帳面な清の性格が窺われるエピソードです。そしてこんなことも



子煩悩の父は、よく小さい私を顧客のところへ連れて行ってくれた。
昭和11年2月発行の顧客名簿、麻布区のところに「ルーマニア公使館殿」とある。これは父が納めたものだ。2月末のある日、父はこう行った「ルーマニア公使館へ行こう。冷蔵庫はどうなっているか心配だ。一緒に来るか?」
「うん」
残雪の市内には、三々五々血走った兵が屯していた

昭和11年2月26日 二・二六事件の日
本当に冷蔵庫が心配だったのだろうか?清は嘉造の息子。世の中を震撼させたこの大事件をその目で見て確かめたかったのではないかと思ってしまいます。しかもまだ13歳の息子を連れて行ったことには、のちに伯父がこの文章を書くほどに何か強く心に残したかったのかも知れません。


うまいもん教育
清は下の3人の子供、登美子、君枝、尚武たちもよく食事に連れていきました。会社のある新橋から銀座。当時めずらしい高級レストランにも連れて行ったそうです。
「人間はうまいもんを食べなきゃいかん」
その「うまい」の定義は値段だけではなく、旬だったり、土地によったりそこで味わううまいもん。清はそれを子供たちに教えました。
その甲斐あってか彼らが大人になってからも加藤のファミリーが集まるとご馳走も集まりました。そして今年89歳になる母もいまだに自分で毎日料理をして、テレビで新しいレシピが紹介されると作ってみて、うまいもんへのこだわりは失われません。
母の舌にも私にもうまいもん教育は受け継がれています

清を囲んで左から君枝、次男尚武、登美子

お墓のある浅草長泉寺にて
銀座を歩く様子

加藤尚文 加藤尚武共著トポスとしての家より
幸か不幸か、私たち4人の兄弟は、父から一銭の遺産も受け取らなかった。
今でも、東京銀座の日軽金ビルの向かいに天ぷら屋があるが、その一隅含む三階建の角ビルが、父の全盛期のオフィスだった。しかし、あれほど福沢諭吉先生を口にし、「しょうばい」を口にしていた父は、今日の言葉で言えば、完全な落第経営者だった。それだけの儲けをを全部飲み食いに蕩尽し、全てを手放して文字通り江東の茅屋で86歳の生涯を終えた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?