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「限りある時間の使い方」

「限りある時間の使い方」(オリバー・バークマン 高橋璃子 かんき出版)

ニューヨーク在住のライターによる、時間管理の原点に立ち返る本。原著のタイトル「Four Thousand Weeks」が示すように、人生は短く、がんばってタイムマネージメントをしても新たな仕事がどんどん来るばかりで、「時間が足りない」という状況が解決することは永久にない、という身も蓋もない結論からスタートし、それではどうしたらいいかということが書かれている。非常に面白かった。

 時間はもともと、生活が繰り広げられる舞台であり、生活そのものだった。ところが、時間はどんどん生活から切り離され、「使う」ことができるモノになった。
 ここから、人間と時間との現代的な格闘がはじまる。
 時間を「使う」ようになった僕たちは、「時間をうまく使わなければ」というプレッシャーにさらされる。時間を「無駄に」すると、なんだかすごく悪いことをした気分になる。やることが多すぎてパンクしそうなとき、僕たちはやることを減らそうとするのではなく、「時間の使い方を改善しよう」と考える。もっと効率的に働こう、もっと頑張って働こう、もっと長い時間働こう。(32-33ページ)

 さらに一歩進んで、時間を「使う」という考え方自体を疑ってみることもできる。
 そもそも時間は、自分の持ち物ではない。時間を使うかわりに、時間に使われてみたらどうだろう。計画通りにスケジュールをこなす人生ではなく、歴史のなかの現在に身を置き、その時々の必要に応じて生きてみるのはどうだろうか。(44-45ページ)

 1日に詰め込めるタスクの量を増やしたからといって、すべてをコントロールできている感覚なんか得られないし、重要なことを全部やるだけの時間も生まれない。そもそも、何が重要かというのは主観にすぎない。自分や上司にとって重要なことが、時間内に実行可能だと考える根拠はどこにもないわけだ。(53ページ)

 必要なのは効率を上げることではなく、その逆だった。
 すべてを効率的にこなそうとするのではなく、すべてをこなそうという誘惑に打ち勝つことが必要だったのだ。
 反射的にタスクをこなすかわりに、すべてをやりきれないという不安を抱えること。やりたい誘惑を振りきり、あえて「やらない」と決めること。そのあいだにもメールや用事はどんどんやってくるし、そのうちの多くはまったく手がつけられないだろう。それでも、その不快感に耐えながら、本当に重要なことに集中するのだ。(63ページ)

 選べなかった選択肢を惜しむ必要はない。そんなものは、もともと自分のものではなかったのだ。あなたが何を選ぶとしても--家族を養うためにお金を稼ぐ、小説を書く、子どもをお風呂に入れる、ハイキングに出かけて地平線に沈む淡い冬の太陽を眺める--、それはけっしてまちがいではない。
 本当はなかったかもしれない貴重な時間の過ごし方を、自分自身で選びとった結果なのだから。(87ページ)

 皮肉なことに、人は後戻りできない状況に置かれたほうが、選択肢があるときよりも幸せになれるというデータがある。手持ちのカードを多く残しておくよりも、「これしかない」という状況のほうが満足度が高まるのだ。(107ページ)

 自分は万能ではない。ただの無力な人間で、それはどうしようもない。
 その事実を受け入れたとき、苦しみはふいに軽くなり、地に足のついた解放感が得られるだろう。「現実は思い通りにならない」ということを本当に理解したとき、現実のさまざまな制約は、いつのまにか苦にならなくなっているはずだ。(132ページ)

 目の前の1週間は、けっしてあなたの思い通りにはならない。制約だらけの時と場所に放り込まれて、次に何が起こるかわからない不確実な瞬間瞬間をただ生きるしかない。
 そう考えれば、「人の存在とは一瞬の時間の連続である」というハイデガーの考え方もしっくりくるのではないだろうか。(141ページ)

 「何が起ころうとも気にしない」生き方とは、未来が自分の思い通りになることを求めず、したがって物事が期待通りに進むかどうかに一喜一憂しない生き方だ。それは未来を良くしようという努力を否定するものではないし、苦しみや不正をあきらめて受け入れろという意味でもない。そうではなく、未来をコントロールしたいという執着を手放そうということだ。そうすれば不安から解放され、本当に存在する唯一の瞬間を生きられる。つまり、今を生きることが可能になる。(146ページ)

 今を生きるための最善のアプローチは、今に集中しようと努力することではない。
 むしろ「自分は今ここにいる」という事実に気づくことだ。
(中略)
 今を生きるとは、今ここから逃れられないという事実を、ただ静かに受け入れることなのかもしれない。(164-165ページ)

 何もせずにのんびりするのが余暇の目的だったはずなのに、それだけでは足りない気がしてくるのだ。休みの日も将来に備えて投資していないと、なんとなく気分が落ち着かない。余暇そのものさえ、より生産的な労働者になるためのツールのように思えてくる。(168ページ)

 余暇を有意義に過ごそうとすると、余暇が義務みたいになってくる。それでは仕事とまるで変わらない。(168ページ)

 でも本当は、余暇を「無駄に」過ごすことこそ、余暇を無駄にしないための唯一の方法ではないだろうか。
 何の役にも立たないことに時間を使い、その体験を純粋に楽しむこと。将来に備えて自分を高めるのではなく、ただ何もしないで休むこと。
 一度きりの人生を存分に生きるためには、将来に向けた学びや鍛錬をいったん忘れる時間が必要だ。怠けることは単に許容されるだけでなく、人としての責任だといっていい。(173ページ)

 時間がすべて何かのための手段になってしまい、今このときの価値が失われていたのだ。
 中年期には、多くの人が自分の死を意識しはじめる。死を意識すると、将来のためだけに生きることの不条理さを無視できなくなる。
 そのうち「将来」はなくなってしまうのに、将来に備えつづけることに何の意味があるのだろう? (184ページ)

 誰もが急いでいる社会では、急がずに時間をかけることのできる人が得をする。大事な仕事を成しとげることができるし、結果を未来に先送りすることなく、行動そのものに満足を感じることができる。
 僕にこのことを教えてくれたのは、ハーバード大学で美術史を教えるジェニファー・ロバーツだった。
 ロバーツは最初の講義で、いつも同じ課題を出す。「美術館に行って絵画か彫刻をひとつ選び、3時間じっと見る」という課題だ。これは学生を恐怖に陥れる。なぜなら、そのあいだメールやSNSは一切禁止、スタバにコーヒーを買いに行くことさえ許されないからだ(さすがにトイレ休憩だけは最低限認めてくれるけれど)。
(中略)
 受講生たちは身をもって学ぶことになる。その場から動けずに、ペースを速めることもできずに、じっと待つことがどれほど苦痛であるか。それでも3時間耐えたとき、その先にどれほど価値のあるものが待っているか。
(中略)
 アートには時間がかかるという事実を教えることも、教師としての責任だ、と彼女は考えた。
(203-204ページ)

 ペックの話のポイントは、「わからないという不快感に耐えれば、解決策が見えてくる」ということだ。これは芝刈り機や車を修理するときだけでなく、クリエイティブな仕事や人間関係の悩み、政治や子育てなど、人生のほとんどの場面に当てはまる。(209ページ)

 ハーティグは批判を覚悟で、次のように主張した。
 人々が本当に必要としているのは、個人のスケジュールの自由度ではなく、逆に「社会によって管理された時間」だ。
 時間の使い方を外部から決めてもらったほうが、人は安心して生活できる。コミュニティのリズムに合わせた暮らし、昔の安息日のようにいっせいに休む慣習、あるいはフランスのグラン・バカンス(毎年夏になると、数週間ほとんどすべての機能が停止する)のようなものが必要なのだ。(222ページ)

 「人はある年齢になると、衝撃的なことに、自分がどんな生き方をしようと誰も気にしていないことに気づく。人の期待に応えることばかり考え、自分を後回しにしてきた人にとって、これは非常に恐ろしい発見だ。自分のことを気にしているのは自分だけなのである」(258ページ)

 「希望を捨てることは肯定であり、始まりの始まりです」(271ページ)

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