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「命の教科書」
「命の教科書 東大クイズ王医師×聖路加救急医療チームが伝える! もしものときの基礎知識」(亀谷航平 白﨑加純 集英社)
東大クイズ王医師と、聖路加救急医療チームによる、自分や家族が救急搬送された際に起こることなど、必要な知識や、あらかじめ準備しておくべきことについて文章とマンガで説明した本。医師だけでなく、看護師、管理栄養士、理学療法士、ソーシャルワーカーなど、さまざまな医療スタッフによる説明があって、非常にわかりやすく参考になった。
家族が延命治療について意見が割れたときのことや、体の麻痺が残って復職できなくなったときのこと、遠く離れた肉親が入院したときのことなど、起こりそうなケーススタディがいくつもあり、読んでいて辛い気持ちになる部分もあった。ただ、でもやはり考えておかなくてはいけないことだと思った。明日、自分や家族に何が起こるかは、誰にもわからないのだから。
特に78ページにあった、自分の緊急連絡先や持病、服用している薬などをアナログで記録して持っておくというのは、自分が倒れた際にとても大事だと思って、読み終わった後に早速準備した。
脳は司令塔なので、たくさんの動きのイメージを蓄えています。ですから、たとえ今はほとんど動かなくても、「私は右足を動かしている」と意識しながら何回もトライすることで、その刺激が脳と筋肉を結びつけ、少しずつ動くようになることは十分に期待できます。リハビリに重要なのは、イメージすること、意識すること、そして回数(量)なのです。(39ページ)
脳卒中の場合、脳へのダメージの程度(重症度)がその後の麻痺を最も大きく左右します。
ただ、同じ重症度であっても、人によって、麻痺の程度やその後の回復に差が生じることは多々あります。それは、病気になる前の体力が大きく関係することがわかっています。ここでいう体力とは「筋力+持久力」です。「病気にならないために運動しよう」とはよく言われますが、病気になったときこそ、それまでにしてきた運動が助けになります。病に倒れたスポーツ選手が驚異的な回復を果たしたという話はよく耳にしますが、これは偶然ではないと思っています。鍛え続けていたからこそ持っていた強い体力が、病に倒れた後も回復を後押ししてくれたのです。
私は「リハビリは病になる前から始まっている」と考えます。いざ病に倒れたときこそ体力が必要。筋力と持久力を保持するために、元気な今こそ、日々、意識的に体を動かしてください。特別な運動である必要はありません。ウォーキング、無理のない程度のスクワット、踵を上げてゆっくり戻すなど、日ごろからちょっとした隙間時間に筋肉に刺激を与えることを意識して生活することをお勧めします。(44-45ページ)
一家の大黒柱が倒れた場合、体の心配はもちろんですが、もしかしたらそれ以上の不安に苛まれるのが金銭の問題です。これは家族だけで何とかできる問題ではありません。決して家族内で抱えこまず、早い段階で入院している病院の医療ソーシャルワーカーを訪ねて、困っていることや今後心配なことを相談してください。
医療ソーシャルワーカーは、患者さんの退院後の生活や社会復帰、そして医療費などの相談に至るまで、幅広い制度に詳しい専門家です。現在、ほとんどの急性期病院には医療ソーシャルワーカーが勤務しています。金銭の不安は家族によって内容が異なりますので、個別に相談することが必須。ここでは多くの方が遭遇する生活費と住宅ローン問題にお答えします。(48-49ページ)
大切なことは、今、少し頑張ればできそうなことをリハビリの目標に設定し、ひとつずつ、クリアしていくこと。たとえ昔と同じようにできなくても、ご自身がしたいことに少しずつチャレンジして、確実にできることを増やしていく。その過程を経ることで、今の自分自身を受け入れ、誰でもない、ご自身の人生を歩んでいけるのだと思います。そのために、まずは目の前のリハビリを信じて続けてほしい。少しでもその手助けになりたいと私たちは願っています。(61ページ)
よく、患者やご家族さんから「点滴で栄養を投与してください」と言われますが、首の太い血管から入れる中心静脈点滴でない限り、腕の血管から入れる末梢点滴からは少量の糖分や水分しか摂ることはできません。病院でよく使われる糖分入りの点滴(末梢静脈栄養)からはおせんべい1枚~かけうどん1杯程度のカロリーしか摂ることができないのです。この点滴だけでは1日に必要なエネルギー量をまかなうことができず、数日が経過する頃には、肝臓に蓄えられていたエネルギーが底をつき、代わりに今ある筋肉や脂肪を燃やしてエネルギーを補充し始めてしまいます。症状が重いほど体内では修復のためにタンパク質を必要とし、患者さんは目に見えて瘦せ細っていってしまうのです。(63ページ)
自分が倒れて意識不明の重体のとき
どうやって家族に 知人に 連絡をとってもらえばよいのか?
ご家族のためにも事前の準備が大切です(71ページ)
繰り返しになりますが、年齢にかかわらず、もしものときに連絡をとってほしい家族や友人の電話番号を書いたメモを、財布などわかりやすい場所に入れておいてください。
スマホ社会になってから、手帳を持ち歩く人が少なくなり、たとえ手帳は持っていても、アドレス帳はスマホで管理。スマホのロックが外せない以上、手も足も出ません。結局、緊急時に連絡をとってほしい人に行き着く最も早い方法は、昔も今もメモ書きです。(77ページ)
私は 山田太郎です
電話 090-XXXX-XXXX
家族 妻 花子 080-YYYY-YYYY
娘 幸子 090-ZZZZ-ZZZZ
持病 高血圧 糖尿病 (〇×病院に通院)
薬 アムロジピン 5mg 朝
メトホルミン 250mg 朝晩
(78ページ)
突如重病に倒れ、意識を失った親の今後について、残された子どもの間で意見が分かれるケースは少なくありません。ただ、このとき最も大切なことは、家族の意見ではなく、患者さん本人の意思です。その本人の意思がわからない場合、これまで時間を共にしてきたあらゆる場面を思い出しながら、本人の意思がどこにあるかを家族で話し合ってみましょう。
すんなり決まるのは、普段から本人が自らの死生観について明言していた場合です。ことあるごとに「私はいざというときには心臓マッサージはしなくていいからね」と言っていた(逆もまた然り)ならば、家族も納得できると思います。(88ページ)
人間が重病に陥ったとき、その時点ですでに7割の確率で自分の意思を言葉にすることができなくなっていると言われています。つまり救急搬送されたときには、本人は意思を伝えられないケースがほとんど。そんなときはまず「本人だったらどう思うだろう」と患者さん本人になって考えてみることに徹してください。(90ページ)
主役は病気になった患者さん本人であり、家族はあくまでも脇役。もちろん最終的には家族が決めるわけですが、家族だけが「決断」の責任を負うと思わないでください。医療者と一緒に決めていくという在り方が、実は非常に重要です。(91ページ)
私が患者さん本人の推定意思を引き出すために、ご家族によく投げかける質問があります。
「お母様(またはお父様、など)はどのような方ですか? 目元がとても優しそうな方だなという印象を持ちました」
「もしよろしければ、お母様(またはお父様、など)のお人柄をお聞かせいただけませんでしょうか。私たちもどのような方なのか知っておきたいのです」
すると、重い話題に口を閉ざしていたご家族が、堰を切ったように患者さんの人柄を表す昔のエピソードを話し始めます。「母は本当に優しい人で、私たちに怒ったことがありません」「父は厳しい人でしたが、文句一つ言わず私たちを大事に育ててくれました」など。このような形で、医療者が家族の間に入ることで、患者さん自身を主役として、その人ならどう言うだろうか、というところに着地しやすくなることが往々にしてあるのです。(92-93ページ)
私たちにとって救命のために「何でもする」とは、胸骨圧迫や気管挿管、人工心肺など、ありとあらゆる方法を講じて命を救うことです。痛みや苦しみを伴う治療も多くあります。そうやって取り留めた命は、その後、以前と同じように元気になるとは限らず、大きな後遺症を残す可能性もあります。もちろん、患者さんご自身がそれでも一命を取り留めることを望むならよいのですが、かなりご高齢で自然の成り行きの中で呼吸が荒くなっているような状況において、ご本人はそこまでの高度な治療を望んでいないことがあります。さらに言うと、「何でもして父を助けて」とおっしゃったご家族に関しても、人工呼吸器などの治療までは望んでいないことも。(103ページ)
しかし「何でもしてください」はときに患者本人や、その言葉を伝えた家族(代理意思決定者)の真意・希望とはかけ離れた状況にもなりかねないと思う場面が多々あります。もちろん私たち医療者は、患者さんやご家族に十分に状況を説明し、よりよい選択ができるように尽くしますが、「何でもする」は誰に対する何のための医療行為なのか? それは患者さん本人の意思なのか? ということにいつでも立ち返り、考えていくことが大切だと思います。(104-105ページ)
生命が脅かされている状況では、まず第一には救命を考えるべきですが、それが必ずしも「正しい」とは言い切れない場合があります。この場合の「正しい」とは、「本人の意思に添っている」であったり、「残される家族の合意がとれている」であったり、さまざまな解釈ができます。私の好きな漫画に「「納得」は全てに優先するぜッ!!」という言葉がありますが、こうした場面における「正しい」とは、まさに「納得」ではないかと私は思うのです。(115ページ)
肉親や配偶者を愛することは、「一分一秒でも長く生きてほしいと願うこと」とは必ずしも同義ではないということです。そうした究極の状況にあるときこそ、「本人ならどう思うか」を本人になった気持ちで考え抜く。それこそが「愛」だと思います。(116ページ)
誰しも、自分の最愛の家族に対し、「これ以上の処置は希望しません」と決断することはつらく、苦しいものです。ただ、このような決断をした場合も、医療者は決して治療をやめません。できる限り患者さんが最期の瞬間まで苦痛なく過ごせるよう、最大限のサポートをします。それは患者さんに対してだけでなくご家族に対しても同様です。(119ページ)
救急車から直接搬送されてくる救命救急センターでは、ご家族から「怖い」という言葉をよく聞きます。「怖くて近寄れない」---この気持ちは、決して冷たいわけでも思いやりがないわけでもありません。今朝まで元気だった人が、同じ人とは思えない姿でストレッチャーに横たわっていて、顔や身体にたくさんの管が繋がっていたりするのです。思わず後ずさりしてしまうのは当然だと思います。(152ページ)
そうしたご家族の葛藤に接するたびに思います。皆が元気なうちに、「もしも」の場合を話し合ってお互いの望みを共有できていれば、こんなふうに悩まずにすむのではないか、と。
死に関する話題は、日本ではなぜか「縁起でもない」と避けられる風潮が強く、家族間でもいまだタブー視されている感が否めません。欧米では、数十年前から「いかに死にたいか」を家族間で共有することは当然のこととされ、そうした話し合いをACP (Advance Care Planning : 人生会議)と呼び、年に1回の年中行事にしている家族も多いといいます。
「いかに死ぬか」は、「いかに生きるか」を考えることでもあります。元気な今、どうかご家族と、そして大切な人と、どこかのタイミングで「どう生きたいか」を話し合ってみてほしいと思います。(183ページ)