「日本のコミュニケーションを診る」
「日本のコミュニケーションを診る」(パントー・フランチェスコ 光文社新書)
イタリア出身の精神科医による、日本のコミュニケーションの異質さを指摘する本。日本社会は個人の利益より集団の利益を重視していて、それによるいい面もあるが、個人が生きづらくなっていることを、精神科医としての経験や、関連文献(「タテ社会の人間関係」や「嫌われる勇気」なども)の言及などによって明確に述べている。最後の方で「欧州中心的な考え方から日本社会を批判しているわけではない」(188ページ)とも述べていて、日本社会をより良い仕組みにしたい、理解を深めたいという気持ちからこのような本を書いているのだろうと思う。表紙の絵を見たときは漫画本かと思ったが、非常に真面目な日本のコミュニケーション論の本である。
もはやありふれた言葉に聞こえるが、日本の文化的背景には「集団主義」が存在する。こうやって西洋と東洋の違いを強調すると、実際の社会に存在する複雑な構造や、ステレオタイプには当てはめられない差異の微妙のグラデーションを見落としてしまうおそれがある。だがそれでも、日本社会は個人の利益より集団の利益を重視していると言いたい。(32ページ)
異なる文化的自己観には異なるコミュニケーションのスタイルが見られる。西洋社会の人間は自己記述、つまり個人のことを話す際に人格特性を「標準的」に述べる傾向があると示唆された。例えば「私は素直」「私は誠実である」「私は一切こうではなく、友達を裏切らない」といった言い方だ。自分の人格を示す独立した特性で、自身のことを他者に説明しようとする。一方、東洋社会の人間は自己記述の際に「状況特性的」に述べる傾向がある。例えば「私は母親である」「私は大学生である」「私は社会人ではない」といった言い方だ。(36-37ページ)
①東洋社会は西洋社会に比べて「資格」より「場」を強調する傾向がある
②自己記述の際に「資格」より「場」を強調する人は、抽象的人格特性を「状況特性的」に述べる傾向がある
③抽象的人格特性を「状況特性的」に述べる傾向のある人は、「標準的」に述べる傾向のある人より自己開示しにくい状態が発生する
④従って自己記述の際に「場」を強調する社会は、自己開示しにくい環境になる懸念がある(44ページ)
日本社会において「他人に迷惑をかけること」は最悪の行為とみなされている。他者に迷惑をかけるのを必死に避けようとする社会は、社会的アイデンティティに偏りやすいと思う。というのも、他者に迷惑をかけるリスクを考えれば、絶対に自己の感情表現を優先しないからだ。
「迷惑をかけたくない」という日本人の気持ちが最もよく表された日本語は「遠慮」だと思う。他者に助けを求める行為、自分の感情をあらわにする行為は必死に避ける。なぜなら、他者に不愉快と思われるのは最上の罪とされているから。(53-54ページ)
ちなみに、日本語の「お節介」に該当する英語はない。お節介の概念自体は「meddling」にあたるだろうが、これは直訳すると「過干渉」である。なかなかに興味深い。(57ページ)
短絡的な考察は良くないが、とにかくここで言いたいのは、個人のアイデンティティを表現するポジティブなコミュニケーションのためには、ある程度お互いのパーソナルスペースへの「侵略」が必要だということだ。日本ではこの「侵略」行為のすばらしさがあまり注目されていないと筆者は考えている。それはどうしてだろうか?
このような、侵略行為が迷惑やお節介、ひいては自己否定につながるという「恐怖」を「迷惑ノイローゼ」と命名したい。大げさに聞こえるかもしれないが、日本社会のコミュニケーションに対して問題提起したい一人の学者の、挑発を込めた気持ちが含まれていると思ってほしい。
迷惑ノイローゼとは要するに、大したリスクがないのに、自分のせいで他者に不愉快な思いをさせるのではないかと過剰に心配することだ。これのせいで、他者に共感したい、興味を持ちたい、関わりを持ちたい衝動があっても、言葉や態度に出すことをためらい、結局は関わらないままにしてしまう。対人恐怖症に類似するところがあるかもしれない。対人恐怖症は世界的にも日本の文化依存症候群の一つとして認められ、過剰な不安から他者と関われないことを意味する。(58-59ページ)
「迷惑ノイローゼ」は日本社会の社会的期待の表れではないかと思う。他人に迷惑がかかることをおそれる人は、自己感情を過度に抑制する。私たちの周りにいる、困っていたり悩んだりしている人の多くは、助けを求めることができず、静かな叫びをあげている。助けを求める行為を心理学の用語で「援助要請行動」と呼ぶが、「迷惑ノイローゼ」はこの援助要請行動を阻害する可能性がある。(65ページ)
「頑張って」という言葉には「努力」のニュアンスが含まれている。努力すれば、踏ん張れば、何とかなる。自分の意志を貫き通すようなイメージだ。一方、「Good luck!」「Buona fortuna」という言葉からは、本人の努力や意志の影響を軽くして、運による部分が強調される。運が良ければ物事がうまくいくが、運が悪ければどれだけ努力しても難しいという信念が根深いのかもしれない。(77ページ)
「頑張る」ことに過度に頼るのは危険である。「もっと頑張れば成功できる」という発想につながるからだ。裏を返すと、失敗の原因は自分が十分頑張らなかったから、怠けたからという考えに行きつき、自責の念を膨らませることになる。成功を導くのは自分の努力だけでなく、運や元々の才能や環境的な要因など、多因子的なものであると認識した方が良い。本人の努力による部分は当然あるが、それが全てではないと知るのが大事だろう。日本社会では、どうしても自己責任が強調される傾向があると感じる。(78ページ)
日本にはどうしても本人の努力そのものを美徳と捉える傾向がある。それ自体はある意味では長所でありすばらしい面もあるが、「努力しても成し遂げられないときは諦めてもいい」という側面がセットにならない限り、失敗は全て本人の責任になってしまう。このような、努力自体を美徳と捉える考え方は「努力至上主義」と呼んでもよいだろう。(79ページ)
筆者の解釈でも「辛抱」と「我慢」は違う。前者は一時的に自分の快楽や欲求を抑え、先延ばしにすることだが、後者は集団から排除されないために、無期限に自分の欲求を押し殺すことに近い。適応できていない職場で、理不尽なお客さんにも礼儀正しく対応する。いじめられても、何事もなかったように笑顔を取りつくろう。自分の意見を述べて相手と対立するより、過半数に無理やり賛同する。こうした我慢のエピソードは巷にあふれているだろう。(82-83ページ)
「外部の基準系」とは小難しく聞こえるが、説明すればシンプルだ。北米の人々の行動と比較して、日本社会では行動へのモチベーションが個人の内的な属性(態度、個人的な欲求、動機など)よりも社会環境(他人の期待、指摘など)を手がかりに形成されやすいことを示している。(86-87ページ)
これもあくまで全体の傾向だが、経験上、日本の接客は(一部の高級店などを除いて)「お客さま」として接するスタイルがほとんどなのに対して、イタリアでは「友達」のように接することがある。お客さまを神さまとするのではなく、一人の個人として大切に扱おうとする接し方である。(98ページ)
ジョン・ポール・スティーブンスとアブラハム・カルメリはチームにおける知識創造能力とパフォーマンスに対して、負の感情がポジティブな効果を及ぼすという共同論文を2016年に発表した。彼らの研究結果を見ると、負の感情表現に成功できたチームは、そうでないチームと比較して高い知識創造能力と効率性を示している。他にも、負の感情表現が許されるグループの方が苦労を分かち合い、全体的に機能性の高いチームになることがわかっている。(106-107ページ)
日本の学校空間には「スクールカースト」という奇妙な現象がある。学者たちからも指摘されているし、もはや一般的にも知られた言葉だろう。学校を社会の模型として解釈したとき、スクールカーストは極めて容赦ない階級制度だ。
知らない読者のために簡単に説明しておくと、スクールカーストとはスクール(学校)におけるカースト(序列・派閥)である。運動や勉強の能力、モテるか否か、面白さや雰囲気などで「イケてる」かどうかが決まり、自身の評価や属するコミュニティが左右される。
スクールカースト的な現象は、決して日本に限った話ではない。ただ、「集団内でのコミュニケーションのうまさ」で序列がつけられる点が、日本独特といえる。日本の学校空間では、集団コミュニケーションの出来具合で、周りの承認を得られてトップのカーストに「昇進」できる。(114ページ)
日本社会はどんな風に脆弱性から逃避しているのか。
象徴的なのは恋愛の世界である。ここでは、いわゆる「婚活」に関して話したい。欧米にも婚活にあたる活動がないではないが、多くの場合は個人で済ますものであり、社会的に認知された活動・イベントではない。さらに「合コン」という概念に至っては、イタリアの友人に説明することも難しい。もしかすると、白い目で見られるかもしれない。端的に言うと、結婚したいから恋人を見つけようとするのが本末転倒と思われるのだ。(120ページ)
私たちに必要なのは「負け組でいられる勇気」ではないだろうか。それは、変わり者(weird)と思われることへの勇気でもある。欲望を満たすには、どうしても感情を表現しないわけにはいかないだろう。
その勇気さええらば、「負け組」は本当に意味では負けていない。他者との競争に勝つのではなく、自分の中の戦いに勝っているのだから。己を知り、常識のルールに則りながらも感情を表現できる人こそ、真の「勝ち組」だろう。(125-126ページ)
感情労働とは社会学者のA・R・ホックシールドが1980年代に定義した概念で、肉体労働や頭脳労働と並ぶ労働の一種である。その名の通り感情に負荷のかかる労働であり、例えばいつでも笑顔でハキハキと明るく対応することを強いられる接客業や、クレームの罵詈雑言に耐える必要のある電話対応などがイメージしやすい。もちろん、そうした職種以外でもかなり多くの人が言語/非言語の両方を用いて感情労働に従事している。(131ページ)
前にも話したように、日本の勝ち基準は欧米圏のそれと異なり、他者と共有する空気の乱れを避ける作業が大事であり、自分に素直であることは特段美化されない。ここで必要とされる感情抑制はまるで「スキル」のようである。(134ページ)
もちろん、西洋社会に建前が存在しないわけではない。だが、日本社会と比較したときの違いは、本音と建前を受け入れる意識である。西洋社会では本音と建前の間に生じる両価性が矛盾と感じられ、不快感と抵抗感が湧く。
日本の場合は、本音と建前は矛盾するものではなく、必然的な両立関係に結ばれているように思われる。日本人が建前を身につけるのは社会人になるための必然的な「通過儀礼」であり、成熟した大人には本音と建前の使い分けが期待されている。(139-140ページ)
臨床心理学者の河合隼雄は日本人の精神を「中空構造」という興味深い言葉で表している。河合の考えを簡潔にまとめると、日本人の精神は西欧のそれと異なり、二元論のような極端な立場を避けて中間性をとろうとする傾向がある。中立的な、決断力を求められない選択をすることが多い。積極的には何もしない、真ん中が空っぽの構造なのではないかという指摘である。(143ページ)
日本の精神科の臨床医が興味深い現象を報告している。「職場のキャラを変えたい」と訴える受診者が急増しているというのだ。この場合、医学的な診断はおそらく「適応障害」となるだろう。ネット上の記事や書店に並ぶ本にも「自分のキャラを変える方法」といった文字をしばしば見かける。(147ページ)
整理すると、キャラ文化とは次のような特徴を持つ。
①性格の一側面の協調
②集団内で他者のキャラと被ってはいけない
③一度定着すると脱することが難しい
④社会的アイデンティティの表現の一種
日本社会にキャラ文化が浸透していることには理由がある。端的に、個人の固有性を全て受け止めるよりもキャラとして取り扱った方が制御しやすいからだ。
キャラには他者が特定しやすい要素が求められる。それは本人の「真実」ではなくとも構わない。省略された人格によって社会的役割を果たすのが目的であり、本人の自己感情を表出することが目的ではない。(148-149ページ)
大人が普段から行う感情表現は、子どもたちの感情表現形成に影響するとされている。大喜多元の論文「児童のネガティブな感情表現に対する養育者による受容感の影響」によれば、負の感情に対する養育者の受容感は、児童の感情表現の成長に影響していた可能性が示唆されている。「怒り」「悲しみ」「不安」「イライラ」「嫌気」「恐怖」「憎しみ」の七つの負の感情を示す児童に対して、養育者の受容感の程度によって、そのスコアに差が出ることが判明した。このことから、児童のネガティブな感情に対する養育者の受け入れ度合いが高ければ、子ども自身が己の感情をもっとコントロールできることが読み取れる。
なぜこの研究の話をしたか。それは、これが大人同士の関係にも反映できるのではないかと思うからだ。相手との信頼性を構築して「対話」をするには、私自身の感情が受け入れられている感覚、つまり相手に受容されていることがかなり大事になる。(160ページ)
気疲れのしやすさには、おそらく個人の性質以上に文化慣習が強く影響すると思われる。中空構造の維持と集団の調和を求める日本社会では、「他者に嫌われないこと」が生存戦略の一つであり、気疲れを引き起こしやすいと思う。
もちろん欧米に暮らす人も他者に嫌われたくない気持ちを覚えないわけではないが、全員と気が合う関係を築くことなんて非現実的だと捉えられている。職場においても相性の善し悪しによる人間関係の摩擦が生じても仕方がないと思われており、無理に誰かの機嫌を取ろうとはしない。比較すると、日本の職場では発言や行動の前に相手の機嫌がどうなるかを考えざるをえないことが多いように感じる。(169-170ページ)
気疲れへの対策にはまず、健全な自己愛を育てる必要がある。コミュニケーションの観点からいうと、相手からの反応が否定的な可能性があっても、自分の意見を言う練習が大切になる。まずは簡単なことでもいいから、自分の意見を言ってみよう。
もう一つのアドバイスは「NO」を言うことである。自分の意見として「NO」の意思を提示して、それで関係が良くなっても悪くなっても仕方のないことである。(中略)
だから、最後のアドバイスは「怒ろう!」ということになる。自分自身を尊敬できない、自己愛も誇りもない人間のことを他者が認めるわけがない。もちろん深く考えずに他者を咎めるよりも、他者に理解されたい気持ちを込めて話すことが大切だ。素直に、自分が傷ついた理由や不機嫌なわけ、納得できないことを伝えよう。それは相手のためにもなる。(170-171ページ)
日本社会において、他者に嫌われることや他者に迷惑をかけることは恥であり、勇気のいることだ。痛みを他者に伝えることを阻む文脈がある。一度建前のコミュニケーションに慣れるとそれはいつしか常態化し、中毒のように私たちを蝕んでいく。(173ページ)
いじめへの正しい対策は、周囲がきちんと向き合って対応することだ。いじめを受けた子のメンタルサポートと、いじめを加えた人たちの処分が一番望ましいと思われる。いじめによる痛みを言語化するのは治癒への第一歩となる。その「痛み」を伝えられるような環境を整えるのは、間違いなく社会や学校、親の役目である。言語化できないとしたら本人のせいではなく周囲や社会の責任だ。(175ページ)
大げさかもしれないが、敬語は束縛の証ともいえる。過剰な敬語が見えない壁をつくり、触れられない話題が多くなる。敬語という形式は、第1部で取り上げた、自分のことに触れる「自己言及」を妨げているように思う。(177ページ)
では、筆者が日本における慣習の改善点だと捉えた「迷惑ノイローゼ」や脆弱性への抵抗感、遠慮や建前やキャラ文化といったコミュニケーションを和らげるには、何をすればいいのか。誤った認知と行動の訂正を促すような、シンプルな五つのモットーを挙げてみたい。
①他者に嫌われてもいい
(中略)
②人に落ち込んでいる姿を見せてもいい
(中略)
③自分の意見を言ってみよう
(中略)
④目上の相手でも断っていい
(中略)
⑤自分のユニークさに自信を持って、自分を苦しませない行動をとってみよう
(中略)
あなた自身を苦しませない言動をして、「素」の姿で生きてみませんか?(188-191ページ)
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