書き留めない
2003年に初めてケニアに来てから、ほとんど意識しておらず、いまさら気づいたことがある。
みんな、基本的にメモをとらないのである。
例えば、hotel(食堂・・・特に田舎では宿泊施設ではなく食堂だ)で、注文しようとする。メニューは文字媒体で一応ある。「一応」というのは、各テーブルにきっちりあるわけではない、ということ。これについては、別テーマで書こうと思う。
従業員を呼ぶ。注文のとき、従業員は何もメモしない。傾聴する、という振る舞いだ。そして言われたことを、暗記する。
先日、複数人で食堂に入ったとき、5人がchips(フライドポテト)、私がgitheri(トウモロコシと豆の炒め煮)を注文しようとした。ほかに、飲み物として各自の好きなソーダなどを頼む予定だった。
一緒にいた人がまとめて注文するときに、飲み物以外をまず注文した。「いっぺんに言うと忘れるだろうから」という。書き留められずに暗記され、かつ、忘れられる可能性も込みで注文しているのだ。
「そういや、人々はメモしない」
学校は別である。ノートはきっちり取る。私が2003年から2006年まで、聾学校で集中的に調査をしていたときは、まず教員が手話で教える。生徒に発言させることもある。最後になって、まとめて書かせる。そんな感じだった。
人が何か書いているのを見るのは、学校の授業くらいだった。あとは、何か儀礼のときなどで取り決めを行うときくらい。
多くの人がスマホを持つようになった今もそうだ。私のスマホで誰かに電話をかけてほしいと何度か頼まれたが、電話番号は何も見ずに口頭で言われた。(配偶者側も含め)親戚であれば、たいてい覚えている。
スマホでちょっとメモしよう、ということなど見たことない。
初めて行く道も、スマホにGoogleを入れていても、ググらない。途中途中で、道行く人に尋ねながら目的地へと向かう。
・・・という前提なので、「筆談」もあまり見られない。わからない言葉をスマホで調べて、翻訳させて見せる、ということが、我ながら変なことをしているように思え、調べたとしても、直接声に出してみる、手話で話してみる、ということを今回してみた。
スマホの画面を見せることがあるとすれば、それは、M-PESAの支払いが完了したというショートメールを見せるときくらいだ。
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