
フィールドワークの近さと遠さを考える
今、とある雑誌にフィールドワークのエッセイを投稿・編集している途中なのだけど、フィールドワークや異国の非日常を味わうことって何が面白いんだろう、って僕はふと手を止めて考えている。前もって言っておくけど、僕に明確な答えは今ここにない。
糸口になるだろうという思いで、ちょっと今書いているエッセイの一部分を取り出して考えてみたい。
車窓から眺める景色が好きだ。どうしてそう思うのだろう。
僕の体は動いていないけれども、車窓の景色は刻一刻と変わっていく。過ぎ去る景色の中で垣間見た人の暮らしに思いを馳せたり、一瞬の風景から思い浮かんだ言葉からしばらく連想を続けたりする。景色がガラッと変わるその瞬間、僕の心は想像からくる興奮と観察する冷静さの間で揺れ動く。車窓の景色はつぶさに見ればこれまで見てきた景色とどこか似ているかもしれないけれども、心に投影される風景はいつも違う。列車の揺れに身を任せながらそのズレについてしばらく考えこんでしまう。
車窓に関するエッセイだけど、車窓自体をメタファーだと思っていい。つまり、僕と他者の間には窓みたいなのがあって、お互いに窓を通して見合っている。お互いは見る側であるし、見られる側である。それがいつからか、フィールドワークを通して(それこそ前回の記事の綿貫君みたいな、すごい体を張った信頼関係構築みたいなこと)、その窓は透明化していく。
そう、フィールドワーカーは観察者であり、演者・当事者でもあり、しかし、中立的で透明な存在にいなければならない。
でも、なんでそうなる必要があるのだろう?
ここ最近、松村圭一郎先生、中川理先生、石井美保先生らの文化人類学者が平易に書いた「文化人類学の思考法(世界思想社、2019)」を読んでいる。細かい話はぜひ買って読んで欲しいのだけど、中でも序論が秀逸だ。
文化人類学では、フィールドワークをとおして、対象にできるだけ近づく。ある土地に生きる人びとの息づかいや匂い、声、肌触りのなかに身をおき、五感を働かせてものごとを理解しようとする。冷静に客観的であろうと心がけつつも、なぜそこで違和感を覚えるのか、自分のなかに生起する問いから目をそらさないようにする。この「近さ」は、文化人類学的思考にとって欠かせない足場だ。(中略)
調査対象との「近さ」と比較対象の「遠さ」。この「距離」が、文化人類学的想像力に奥行きと豊かさをもたらす。私たちの固定観念を壊し、狭く凝り固まった視野を大きく広げてくれる。それが世界の別の理解に到達するための可能性の源泉でもある。(序論p.1-p.2, 文化人類学の思考法, 世界思想社)
最初に書いたように、ここに「ズレ」や「近さと遠さ」とは何か、という明確は答えはない。けれども、その「ズレ」や「近さと遠さ」を考えることを通して、私たちは何者であるのか、どのように生きてきたのかというアイデンティティを問う営みだけではなく、私たちはこれからどこへどのように向かっていくのかということに目が向く。そして、僕たち私たちにとって「当たり前」って何だろうと考えられるようになる。
そう考えられると、昨日の自分、<いま-ここ>にある自分、明日の自分の違いに気づくようになる。その気づきを得られただけでもなんだか嬉しい。そうすると、次は誰かにどうにかして伝えたくなる。もっと違う世界を味わいたくなる。
だから、フィールドワークって面白いんじゃないかな、って思った。
他のメンバーはフィールドワークの何に魅力を感じているのかな。聞いてみよ。
今日のノート担当:つっちー(スリランカ、防災)