飛び出す映像と動き回る音響! 〜娯楽の殿堂として親しまれた「日劇」でのステレオ録音風景
『ソニー技術の秘密』にまつわる話 (21)
ソニー創業者の一人井深大が欧米視察旅行の土産に持ち帰り、東通工 (現ソニー)の技術者・木原信敏の手によって開発された、立体録音機『ステレコーダー』によって録音された「ステレオ音響」にすっかり魅了された井深大、盛田昭夫は、熱心な普及活動を開始します。
「ステレオ音響」はたちまち世の中の注目するところとなり、1952 (昭和27)年9月13日付の朝日新聞夕刊には、
「立体録音時代来る? 〜 十数年来の課題に解答」
という記事が掲載され、この中で音響学の科学研究所員であった 田口泖三郎 (たぐち りゅうざぶろう、1903 - 1971) は、立体録音機『ステレコーダー』により収録された「ステレオ音響」の交響楽の演奏を試聴した感想をこう述べています。
「まるで音楽プロに入ったようだ」
ステレオ効果をまさに端的に表現した言葉といえます。
"「音に立体感を出すためマイクを二個使ってテープ・レコーダーに同時に録音する「立体録音機」の試作品ができあがった。アメリカの通信工業界を視察、去る七月帰国した東京通信工業=東京都品川区北品川六丁目=井深社長が渡米中に立体録音のヒントを得て試作したもの。
今までの録音はひとつのマイクから取るのでいわば片耳で聞くようなものだが、二個だと両耳で音を自然に選り分け、方向感立体感が出てくる理屈。二個のマイクから入った音は一本のテープにそれぞれ録音され再生にも二個のスピーカーが使われる。
立体録音による交響楽の演奏を試聴した音響学の科研所員(当時)田口氏は「まるで音楽ブロに入ったようだ」と次のように語った。
「私も昭和十三年ごろ試みたが、当時は録音の材料が悪く騒音に邪魔され、効果は上がらなかった。今後芸術的な効果の大きいものは立体録音による時代が来るだろう」"
『朝日新聞』1952 (昭和27)年9月13日より
ステレオの研究自体は既に海外では古くから行われており、1881 (明治14)年にフランスの発明家クレマン・アデール (Clément Agnès Ader) により、世界初の2チャンネル音響システムがパリで公開されています。
これは電話の受話器を2つ使用し、両方の耳にあてて聴いていました。
1930 (昭和5)年代には、イギリスの電子技術者アラン・ブルームライン (Alan Dower Blumlein) により、2チャンネルのステレオ録音方式が開発され、アメリカ・フィラデルフィアの Academy of Music では2つのマイクロフォンで1枚のレコード盤に2つの溝を刻む方法が試され、バイノーラル録音の基礎方式も確立され出していました。
1940 (昭和15)年代に入ると、ウォルト・ディズニーの『ファンタジア』が特別な音響方式で、初めてステレオ音声を映画館に導入するなどしていましたが、日本国内においてはステレオの基本的な研究開発はあまり進んでおらず、田口泖三郎の立体音響の実験も、良い成果をあげることはできていなかったのです。
1950 (昭和25)年代に入り、ようやく日本でも井深大、盛田昭夫らによる、ステレオに対する熱心な啓蒙活動の効果もあり、また当時のラジオ放送局が全国ネットで「ステレオ」という名を広めたことも影響し、この時期音響に関係ある事業は、映画であれ、劇場であれ、「ステレオ」や「立体」といった名称を取り入れるのが流行となりました。
そんな中、東通工では東宝映画との協力で、
「飛び出す映像と動き回る音響」
を謳い文句に立体映画を制作。
音響効果のための音作りと、三元立体録音の音どりを行い、映画の飛び出す画像とシンクロし、観客は傾向メガネを掛けて立体視し、音は劇場用大型スピーカーを左右、中央の3カ所に設置し、ジェットコースターの動きに合わせて音も移動させ、臨場感を楽しんでもらえるようにしていました。
これが東京・有楽町にあった「娯楽の殿堂」として親しまれ、1933 (昭和8)年に開館し1981 (昭和56)年に閉館した『日劇 (日本劇場)』での興業に使用されたのです。
“ これは東京有楽町にあった日劇で興行されました。その後日劇は廃止されましたが、当時は日劇ダンシングチームのラインダンスを楽しめる、映画とショーの大ミュージックホールでした。
飛び出す画像は、観客が皆、偏向メガネをかけて立体視する方法で見ながら、音は劇場用大型スピーカーを左側、中央、右側の三ヵ所に設置して、ジェットコースターの動きに合わせて音も移動させるような仕組みになっていました。”
『ソニー技術の秘密』第3章より
この時代、日本では「ステレオ」だけではなく、新しい技術の黎明期でもありました。
テレビの普及とテレビ放送の必要性も高まってきて、1953 (昭和28)年2月には、NHKが初のテレビ放送を開始し、8月には民間テレビ局として日本テレビが開局するなど、より「高音質の音」や「映像」が、普段の生活の中に急速に浸透し初めていた時代だったのです。
文:黒川 (FieldArchive)