文字を電波に乗せ送信、ドイツで開発されたテレックスやFAXの原型 〜 『ヘルシュライバー (鍵盤模写電信機)』
『ソニー技術の秘密』にまつわる話 (2)
テレックスやFAXの原型『ヘルシュライバー』
現在のFAXのように、文字を電波に乗せ送信し印字する機能を持つ文字通信装置の一種『ヘルシュライバー (鍵盤模写電信機)』は、1929年 (昭和4年) に誕生した「メッセージ伝送装置」でした。
発明者であるドイツの ルドルフ・ヘル (Rudolf Hell) にちなんで名付けられたこの装置は、文字を小さな点に分解し電話または電波を通して送信、受信の際は紙テープの上にドットプリンターの要領で印刷し文字を再現するという、テレックスやFAXの原型とも言える機械でした。
『ヘルシュライバー』は「新聞原稿電送装置」として1980 (昭和55)年頃まで使用されていたという記録が確認できますが、日本国内では広く普及することはなく、いわば幻の機械の一つでもありました。
入社3ヶ月目、本格的なメカの仕事
1947 (昭和22) 年7月、新卒採用第1期生として東京通信工業 (現ソニー、以下 東通工) に入社まもない若き技術者・木原信敏は、この『ヘルシュライバー (鍵盤模写電信機) 』の組み立てと調整を任されるようになります。
東通工では木原が入社する少し前より、この『ヘルシュライバー (鍵盤模写電信機) 』の開発を進めており、機械の主要部分の設計は優秀なメカ屋であった稲賀恒 (いながき ひさし) によるものでした。
そのほとんどがメカの部品で、「タイプライターのような鍵盤部分」「文字ドラム部分」「接点部分」の三つの組み合わせからなる「送信機側」の組み立てを木原が担当し、「受信機側」となるヘルカリ電動印字機を中津留要(なかつる かなめ)が担当していました。
中津留要は、ダイナミックマイクロホン (マイクの一種) 改良と音作りでは第一級の知識と技術力を持ったマイクロホンの専門家として、 後に国産初のコンデンサーマイク『C-37A型』を開発する技術者の一人で、終戦直後に井深大と共に疎開先の信州より上京し、1945 (昭和20) 年10月に東京通信工業の前身となる『東京通信研究所』の設立に参加した創設メンバーの一人でした。
“ 私は入社後三ヵ月して、この鍵盤模写電信機の組み立てと調整の仕事を任されました。
本格的なメカの仕事を始めることになって、元気が湧いてきました。
さて最初の問題は、文字を作り出す接点の円盤を作り出す作業です。ギヤ、つまり歯車の頭を仕様書どおりに削ったり、残したり、ヤスリでゴシゴシ取り去っていく作業でした。
しかし何個削ればよいのでしょうか。タイプライターの鍵盤の数だけ必要なのです。その数七六余りで、それを五台も作ったら、もううんざりしてしまいます。
私は考えました。足踏み式シィーア(機)に自分で作った回転を取りつけ、残す歯車の頭には赤いペンキで目印をつけておいて、あとはスパスパとシィーアで取り去り、ほとんどヤスリは使わずに、二、三日で作業を終了させました。
私は、言われたままコツコツ仕事をしていればいい、と思うような人間ではなかったようでした。”
『ソニー技術の秘密』第2章より
盛田昭夫との出会い
1947 (昭和22) 年9月、
『ヘルシュライバー (鍵盤模写電信機)』の試作機が完成し、逓信省、中央電信局、運輸省、朝日新聞社などでデモを行うようになり、また遠距離通信での実地テストなど、着々と販売に向けて準備が進められていきました。
この時、機械の説明や、販売の陣頭指揮を執っていたのが、ソニー創業者の一人・盛田昭夫 (もりた あきお、1921 - 1999)でした。
入社まもない木原は、それまでほとんど話をするチャンスもありませんでしたが、この『ヘルシュライバー (鍵盤模写電信機)』の組み立てと調整をきっかけに距離を縮めることになります。
木原はこの『ヘルシュライバー (鍵盤模写電信機)』の遠隔通信テストのために名古屋へ出張。当時白壁町にあった盛田家に泊めてもらい、盛田昭夫が十五代当主を務める知多半島の小鈴谷(現在常滑市)にある「盛田酒造」へも訪れています。
東通工製の『鍵盤模写電信機』完成
『ヘルシュライバー (鍵盤模写電信機)』は完成直後に、その使用用途として「通信社が株や経済市場を流している」という話を盛田昭夫より聞いた木原により、無線受信機を改良した短波受信機が作られ、1947 (昭和22) 年11月に朝日新聞社でデモを行い、サンフランシスコからの電文を印字することに成功します。
さらに電送機を複数台接続し『ヘルシュライバー (鍵盤模写電信機)』が通信回路で電話交換機のように各地に自由に通信できるシステム設計を、当時東通工に出入りし、後に東通工に入社する技術者の西山清一 (にしやま せいいち) が担当。
これにより東京、名古屋、金沢と各地に電送機を設置し、それぞれの局から任意の局に相互に通信が可能となり、木原の初めての本格的なメカの仕事は実用性の高い東通工製の『鍵盤模写電信機』として完成します。
しかし、多くの関係者により完成させた東通工製の『鍵盤模写電信機』でしたが、注文数も少なく早々に製造販売を断念、国内での普及は叶わず幻の機器となってしまいました。
入社一年半、木原はいよいよ磁気録音機の開発を指示されます。↓
文:黒川 (FieldArchive)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?